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 戦略研究会

 日中海空連絡メカニズム -運用開始の意義と評価-

(コラム105 2018/6/6)

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   去る5月9日、安倍総理は来日した李克強中国国務院総理との間で日中首脳会談を行い、その後の署名式において経済・外務・環境等、広範な分野における様々な文書・覚書に署名した。そのうちの一つが、「日本国防衛省と中華人民共和国国防部との間の海空連絡メカニズム(以後、「日中海空連絡メカニズム」)に関する覚書」である。
   このメカニズムは海上における信頼醸成措置、軍備管理の範疇に属するものであり、2007年4月、当時の安倍総理と温家宝国務院総理との間での首脳会談において、海上における不測の事態の発生防止のため、防衛当局間の連絡メカニズムの整備に合意したことに端を発する。その後事務レベルでの協議が進められ、2012年6月の第3回共同作業グループでは大枠で合意したが、同年9月に我が国が尖閣諸島を国有化した後に協議は中断した。約2年半の空白の後2015年1月に協議は再開され、以後数次の協議を経て、この度署名に至ったものである。本メカニズムは署名の日から30日目、すなわち6月8日をもって運用が開始される。
   日中海空連絡メカニズムに関しては、 トピックス039及び041 で協議発足からの経緯も含めて記述しているが、署名に至ったこの機会に再度内容を整理するとともに、その意義について考察する。

1 海上における危機管理・信頼醸成メカニズムの性質
   海上での事故防止を目的とするメカニズム構築というアイデアの萌芽は冷戦期に遡る。このような構想を最初に具現化したのが、1972年、米ソ間での海上での緊張を背景に締結された「米ソ海上事故防止協定」であり、協定名の一部(…Incidents On and Over the High Seas)から、一般的にはINCSEAと呼ばれている。INCSEAでは、米ソの艦艇が近接して行動することとなった際に危険な運動を禁止すること、海上での通信を実施することなどを定めている。この協定は全般として肯定的に受け止められており、その後の海上における事故防止に寄与したのみならず、INCSEAに沿った事故対処に安定的なパターンを生み出し、信頼醸成全般を進めたと評価されている。
   日ロ間においても1993年にINCSEAが締結されている。これは冷戦終結後、軍縮や国際協調の機運が高まったことを背景に、崩壊前のソ連側から提案があり締結されたものであるが、協定の内容やフォーマットは米ソINCSEAをベースにしたものであり、他にも、ソ連とカナダ、ノルウェー等が同種の条約を締結、世界中のモデルと評されている。
   INCSEAと同様、危機管理を目的とするが異なる形式を持つ協定として、1998年に米中間で締結された「軍事海洋協議協定(Military Maritime Consultative Agreement:MMCA)」がある。この協定は全9条からなり、その中核となるのは3種類の会議体(年次会合、ワーキンググループ、特別会合)を開催することを規定した第2条である。INCSEAとは異なり、協定自体には事故を防止する規定は含まれていない。
  INCSEA 締結後、米ソ間における海上での事件・事故は従前より減少したのと比較すると、MMCA締結後において米中間での事故はやや抑制されたものの、INCSEA締結におけるほどの顕著な傾向は認められなかった。また、MMCAは米中間で定期的な会合の機会を提供することにより一定の成果を上げたが、このような会合における議論を通じても米中間で安全に関する認識を共有するまでには至らず、むしろEEZにおける軍事活動に関する見解の相違により議論が停滞し、双方にフラストレーションを生じさせる結果となった。このような状況から、MMCAはINCSEAほどの高い評価は与えられていない。

2 日中海上連絡メカニズムの内容
   日中海空連絡メカニズムの条文は公表されていないが、①年次会合、専門会合等の定期会合の開催、②防衛当局間でのホットラインの開設、③艦艇・航空機間の通信の3項目で構成されるとされている。大枠としては2012月の第3回共同作業グループにおける合意事項とほとんど同じであり、この6年間で新たな内容を盛り込んだ形跡は見られない。したがって、今回の協議を通じて内容の合意点を見出したというわけではなく、むしろ協定案自体については従前からほぼ合意しており、締結に向けての双方の意思がようやく合致して署名に至った、というのが実情であろうと推測できる。
   本メカニズムを前述のINCSEA及びMMCAと対比させると、①は米中MMCAの第2条とほぼ同じである。また米中間ではMMCA締結後、これとは別の枠組みで軍事ホットラインの構築に合意しており、これは②に相当する。③については遭遇した艦艇・航空機間の通信方法に言及するに留まり、具体的な運動を定めたものではないことから、INCSEAの規定を模倣したというよりは、2014年4月に中国の青島で開催された西太平洋海軍シンポジウム(Western Pacific Naval Symposium:WPNS)において使用に合意した、「洋上で不慮の遭遇をした際の行動基準(The Code for Unplanned Encounters at Sea:CUES)」に基づく意思疎通について確認したものと見る方が適切であろう。
   したがって、このメカニズムは米ソ、日ロ間INCSEAではなく、米中MMCAをベースとして立案され、これにMMCA締結後に米中間で構築された他のメカニズム(厳密に言えば、CUES使用を定めたWPNSは日本も当事国であるので、③については米中間のみならず日中間で合意済の事項である)を付加したパッケージ協定と見ることができる。

3 意義と評価
   10年の長きにわたる断続的な協議が合意に至り、日中間での事故の発生を防止し、発生した場合にそれをエスカレーションさせないための枠組みが確立されたことは、中国の巨大な海空兵力と対峙している我が国にとって大きな前進と言える。しかしながら、ここに至るまでの交渉の経緯を考慮するならば、このメカニズムの運用開始は必ずしも有効に機能することを意味するとは言い切れない。特に、日中海空連絡メカニズムがINCSEAよりはMMCAに近いものであることから、MMCAと同様の問題が生起し、満足な成果を得られない結果となることは十分に考え得る。
   懸念されるのが定期会合である。INCSEAで最も効果があったと高く評価されるのは、年次協議会が1979年に生起したソ連のアフガニスタン侵攻を理由に米ソ両政府間の話し合いが中断した際も継続したことである。他方、これまでの歴史を振り返ると、何か生起した場合は日中間のチャンネルが全て閉ざされてきた。したがって、定期会合については日中間の理解促進の場として一定の意義を見出し得るものの、当事者両国間の利益が激しく対立するような問題が将来生起した場合、中国が定期会合の延期または中止という手段に訴えるであろうことは想像に難くない。加えて、MMCAにおける会合と同様、現場における安全を確保するための議論は深まらず、むしろ中国が一方的に自国の主張を展開するための場となる可能性も高い。
   防衛当局者間のホットラインの設置についても、先行きは現段階では不透明である。二国間のハイレベルで直通電話を設置するに際しては、防衛当局のどのレベルで設置するか、回線を秘匿化するか否か、秘匿する場合に用いる暗号、使用言語、待ち受けの態勢等、解決せねばならない問題が多数存在する。これらの問題について現段階で技術的な詰めが完了しているとは思われず、開設には更なる実務的な協議が必要であろう。そもそも、このようなホットラインが開設されても、実際の危機に直面した際に中国側が使用するか、日本側からの連絡に対して応答するかは不透明である。すなわち、定期会合にしてもホットラインにしても、その有効性は日中の国家間関係の従属変数であり、確実なものとは言えない。
   艦艇・航空機間の通信に関しては、前述したとおり2014年以来CUESの使用についてすでに合意されているため、今回の署名は従来の連絡手段を確認したに過ぎない。無論、CUESは長きにわたりWPNSでの議論において日米その他の諸国が中国にその使用を、求めてきたところであり、中国側に使用を認めさせたこと自体が大きな一歩であることは間違いない。ただし、CUESについては通信方法の共有もさることながら、そこに規定された安全手順、事故を回避するための基本的な運動指針の方がより重要であり、これらの手順・指針について日中間で共有し、遵守するという状態まで到達しなければ、安全について担保できたとは言い難い。
   その他、中国海軍に属しない準軍事ユニットには影響が及ばない点など、仮に本メカニズムが有効に機能したとしても解決できない問題も依然残っている。我が国の視点からは、まずは現場において中国の艦艇・航空機に遭遇した際に本メカニズムの規定を愚直に履行し、事故の発生や予期せぬエスカレーションの防止を図ることが肝要である。加えて、同種のMMCAを有する米国とも歩調を合わせ、海空域における危険な行動について中国が日米と共通の認識を持つよう、繰り返し求めていく必要がある。

(幹部学校防衛戦略教育研究部長 寺田博之)

(本コラムに示された見解は、幹部学校における研究の一環として発表する執筆者個人のものであり、防衛省、海上自衛隊の見解を表すものではありません。)