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 戦略研究グループ

 帝国海軍と鎮海


(コラム027 2012/05/25)

 みなさんは5月27日が何の日であったかご存知でしょうか?

 年配の方ならご記憶に残っていらっしゃるかもしれません。この日は、昭和20年まで「海軍記念日」でした。

 海軍記念日は、明治38(1905)年5月27・28日に戦われた「日本海海戦」の大勝利を記念し、翌年から制定された記念日です。

 明治38年5月27日未明、哨戒艦「信濃丸」が五島列島西方を航行中のバルチック艦隊を発見します。その発見報告「敵艦隊二〇三地点ニ見ユ・・」を受け、東郷平八郎大将率いる連合艦隊は、有名な電文「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直チニ出動之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」を大本営あてに打電し、主力の第1、第2艦隊は錨泊待機していた海面から対馬海峡へと出撃します。

 その待機海面は、朝鮮半島南端、釜山の西、現在の大韓民国慶尚南道昌原市鎮海区の沖合、鎮海湾から巨済島と加徳島の間を抜けて対馬海峡に至る加徳水道でした。釜山周辺から九州北部にかけての地図を見れば、鎮海が東シナ海から日本海への入口を押さえる要衝であることが一目でおわかりになるでしょう。

 さて、このコラムでは、鎮海と旧日本海軍(以下帝国海軍)との関係について紹介します。



 明治28(1895)年4月、三国干渉が起こります。日清戦争に勝利し、講和条約によって清国から日本へ譲渡された遼東半島に関して、ロシア、ドイツ、フランスの3国は、「遼東半島を日本が永久に領有することは、東洋平和を害する」ものであると、日本に対し遼東半島の領有権の放棄を迫りました。これら列強諸国に対抗する国力のない日本は、遼東半島を清国へ返還します。

 明治31年3月、ロシアは、日本に領有権を放棄させた遼東半島の旅順、大連を租借し、旅順に太平洋艦隊の軍港を建設、あわせて要塞を拡張します。ロシアの採る南下政策は、朝鮮半島の付け根まで達しました。

 一方、三国干渉の結果、親日派が弱体化した朝鮮では、親露派、いわゆる閔妃一派が台頭し、ロシアに接近します。

 明治28年10月、三浦吾楼公使が関与した乙未事変で閔妃は殺害されますが、朝鮮政府はますますロシアに頼るようになり、朝鮮国内ではロシアが非常に大きな影響力を有することとなりました。

 明治32年5月、馬山浦事件が生起します。ロシアは、鎮海西隣の馬山(現在の昌原市馬山合浦区及び馬山会原区)沖に軍艦を派遣し、馬山沿岸の測量を実施します。日本はこの行為を、ロシア海軍用地の買収(軍港や要塞の建設)にあると考え、先手を打って馬山の土地を買い占め、ロシアの進出を断念させました。



明治33年6月、義和団の乱が起き、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の8か国は共同出兵という形で事変を制圧します。事態終結後、各国は派出した兵力を速やかに引き揚げますが、ロシアだけが撤兵せず、事実上、満洲の軍事占領を行いました。

 南下政策を続けるロシアが、日本と対馬海峡を隔て一衣帯水の関係にある朝鮮半島にまで侵出すれば、これは日本の安全保障上、極めて大きな脅威になると言わざるを得ません。ロシアとの戦争はどうしても避けられないものとなります。

 日本は日清戦争以降、軍事では六・六艦隊の整備、陸軍師団の増強など、年々増加する外圧をはね返すための軍備増強を進めました。外交では明治35年に日英同盟を締結しロシアを牽制します。国民は「臥薪嘗胆」を合言葉に、苦しい国家財政を支えました。

 明治36年8月から始まった、満洲と朝鮮半島を巡る日露交渉が決裂した結果、日本政府は戦争を回避できないものと判断します。

 帝国海軍が鎮海湾を重要視する考えは、日露戦争開戦前に作成された4つの作戦計画に、「仮根拠地ヲ鎮海湾ニ設置ス」と具体的に記述されていることからもわかります。その備考には、次のように理由が記されています。

 「鎮海湾ハ朝鮮海峡ノ掌握ヲ確実ニシ、日韓両国間ノ交通ヲ維持スルニ必要ナルヲ以テ、彼我ノ状況如何ニ関セズ先ズ之ヲ占領セントス」

 大陸で戦う陸軍への兵力、食料、弾薬等の輸送には、日本と朝鮮半島を結ぶ対馬海峡の掌握は不可欠です。また、ロシアの軍港である旅順とウラジオストックを結ぶ最短航路が、対馬西水道(朝鮮海峡)であることからも、鎮海を前進根拠地として艦艇を配置し、対馬海峡の防備を万全とする必要があったものと考えます。

 明治37年2月4日、日本は御前会議にて開戦を決定します。陸軍省の文書では、「此日閣議ヲ以テ我ガ国自由行動ヲ執ルベキ旨ヲ宣言シタル日ヨリ戦時ト看做スコトニ決定セラル」と法令を解釈しており、宣戦布告は2月10日に行われますが、海軍は5日に戦時編成としています。同日、海軍は鎮海の対岸に浮かぶ巨済島松真に仮根拠地防備隊を設置する命令を下します。

2月6日、日本はロシアに対し国交断絶を通告。
2月7日、第3艦隊の艦艇が鎮海湾を占領します。
2月9日、旅順港夜襲、仁川沖海戦。
2月19日、運送船4隻が仮根拠地防備隊員及び建築材料、工作機器を満載して巨済島松真へ到着し、仮根拠地防備隊の建設が始まります。あわせて、軍用海底ケーブルが敷設船「沖縄丸」によって対馬から巨済島へ敷かれ、鎮海湾と政府や大本営、他部隊との通信が可能になりました。

 鎮海湾は戦争遂行上、非常に重要な地理的位置にあり、かつ天然の良港であることから、海軍は艦隊の前進根拠地として選定し、海底ケーブルを引き、艦船の待機、補給、休養、小修理の地としたのです。

 以下、日露戦争の経緯を簡単に記述します。

2月から5月にかけ、3回にわたり旅順港閉塞作戦が実施されます。第2回閉塞作戦では、その部下思いの行動が文部省唱歌にもなった廣瀬中佐が戦死しました。
4月13日、旅順港沖で戦艦「ペトロパブロフスク」が機雷に触れ沈没し、優秀な指揮官といわれたマカロフ中将が戦死します。
5月15日、今度は日本の戦艦「初瀬」と「八島」が旅順港沖で触雷沈没し、連合艦隊は6隻しか保有していなかった戦艦のうち2隻を、相手と砲火を交えずにたった一日で失いました。
8月10日、黄海海戦において連合艦隊はロシア太平洋艦隊に大損害を与えます。かつ、敵を追いかけつつ戦闘を行うのは非常に困難であると、日本海海戦の敵前大回頭と、その勝利に結びつく教訓を得た戦いでもありました。
10月15日、バルチック艦隊がリバウ軍港を出港します。
12月5日、旅順要塞二〇三高地が陥落し、ここを弾着観測所に定めた陸上からの砲撃によって、旅順港内に閉じこもったままのロシア太平洋艦隊は全滅しました。

 以後、連合艦隊は佐世保や呉で修理に入り、太平洋へ回航してくるバルチック艦隊を迎え撃つ準備を始めます。連合艦隊が鎮海湾を待機海面と定め、修理を終えた旗艦「三笠」が東郷司令長官を乗せて鎮海へ戻ったのは、翌明治38年2月21日でした。

 対馬海峡に近い港湾には、軍港である佐世保港、古くからの商港である博多湾、唐津湾、伊万里湾、対馬の浅茅湾など数か所があります。その中で鎮海湾が待機海面として選定された理由をまとめると、以下が考えられます。

1 対馬海峡に直接に面しており、バルチック艦隊が対馬海峡を通るならば、最も狭い地点で捕捉でき、かつウラジオストックへの進行方向前面を押さえることができる。
2 バルチック艦隊が太平洋経由でウラジオストックに向かったと情報が入った際、上記の他の港よりもウラジオストックへの距離が近い。
3 連合艦隊の多数の大小の艦艇が、波浪にさらされず錨泊できる地形と海面の広さ、錨泊に適した適宜の水深がある。
4 連合艦隊が訓練する際、遠くの海面まで移動しなくてもよい十分な広さと水深がある。
5 近くに上陸して楽しめる場所がないので、規律の弛緩を防ぐことができる。
6 他部隊との連絡が容易である。

 鎮海湾には「台中丸」という特務船が停泊していて、船内に巨済島松真から海底ケーブルを引き込み、「三笠」が鎮海湾にある間は、連合艦隊司令部の通信中継にあたっていました。

 マルコーニが、モールス信号を用いて無線通信の実験に成功したのは、明治28(1895)年でした。日露戦争当時は、未だ無線通信の黎明期で、安定した遠距離通信は望めません。

 そのような中、日本は三六式無線電信機を開発、駆逐艦以上の艦艇全てに装備します。前述「信濃丸」の発見報告とこれに引き続く巡洋艦「和泉」などからのバルチック艦隊に関する報告は、この無線機を用いて発信、転電され、鎮海湾待機中、もしくは出撃後の連合艦隊司令部に刻々と知らされました。

 日本海海戦についての詳細は省きますが、連合艦隊は世界海戦史に類を見ない大勝利を収め、これは陸軍の奉天会戦の勝利とともに、日露講和会議開催の端緒となりました。

 日露戦争後、帝国海軍は鎮海の軍事的重要性を引き続き認識し、臨時ではなく常駐の部隊を設置することを計画します。

 帝国海軍と鎮海の開発の歴史については、また別に機会を得て述べることとします。


(幹部学校第2研究室長  高橋 哲一郎) 


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主要参考文献等

・伊藤和雄『まさにNCWであった日本海海戦』光人社、2011年。
・大山梓「日露戦争直前における日露関係の一問題-馬山浦事件-」『軍事史学』第4巻第3号(1968年11月)。
・「海軍」編集委員会編『海軍』第12巻、誠文図書、1981年。
・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第一巻、第一法規出版、1995年。
・外務省編『日本外交文書』第36巻第1冊、日本国際連合協会、1957年。
・御厨貴「明治国家の完成」『日本の近代』第3巻、中央公論新社、2001年。
・JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110031200、海軍軍令部編「極秘明治三十七八年海戦史」第一部戦紀巻一(防衛省防衛研究所所蔵資料)
・JACAR Ref.C05110071700、海軍軍令部編「極秘明治三十七八年海戦史」第一部戦紀巻十(防衛省防衛研究所所蔵資料)
・JACAR Ref.C05110083400、海軍軍令部編「極秘明治三十七八年海戦史」第二部戦紀巻一(防衛省防衛研究所所蔵資料)
・JACAR Ref.C06040188800、陸軍省法務局編「明治三十七八年戦役業務詳報」(防衛省防衛研究所所蔵資料)


 本コラムに示された見解は、幹部学校における研究の一環として発表する執筆者個人のものであり、防衛省または海上自衛隊の見解を表すものではありません。