長崎市

長崎ぶらぶら節』の中で、ハタ揚げや長崎くんちと並び規模で“盆祭り”と唄われている精霊流し。長崎の盆は、先祖や親族の精霊があの世から旧7月(新8月)の13日に我が家へ帰ってきて、15日にまた冥土へ引き返すのをあたかも生きている人間に接するように歓待するという情緒に満ちた行事として伝承されている。毎年815日に行われる豪華で賑やかな精霊流しは、盆前に死去した人の遺族が故人の霊を弔うために手作りの船を造り、この船を曳きながら街中を練り歩き海へ流すというもの。他の地方で行われる灯籠流しと同じ意味だ。各家で造られる船は大小様々。材料は主に竹、板、ワラ。長く突き出した船首(みよし)には家紋や家名、町名が大きく記される。故人の趣味などを反映させたり、町内合同でもやい船を出したりと、8月になると細部の飾り付けにまでこだわった様々な造りかけの船が路上に多く見られるようになる。当日、夕暮れ時になると町のあちらこちらからそれぞれの船の出発を知らせる鐘の音と、耳をつんざく爆竹の音が鳴り響く。相当数の花火を鳴らすためこの日の長崎は非日常的な空間が形成される。「チャンコンチャンコン」という鐘の音に「ドーイドーイ」の掛け声。最終地の大波止までこの船の行列は続く。現在は実際に海へ流すことはせず無惨に壊されてしまう。ここでは船から遺影をはずし、その壊される船を眺めながら悲しみにくれている遺族の光景を目にする。爆竹を鳴り響かせ、一見派手なお祭り騒ぎのような精霊流し。初盆を迎え、船を自らの手で造り、見送り、悲しみと訣別する。大波止で見られるこの光景は、賑やかさの裏にある精霊流し本来の姿だといえる

稲佐山から望む長崎市街地。
長崎市の夜景は日本三大夜景にも数えられている

平和記念像

精霊流し

がんばくんらんばちゃん

古くから、外国への玄関口として発展してきた港湾都市である。
江戸時代は国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパから多くの文化が入ってきた。
外国からの文化流入の影響や、坂の多い街並みなどから、日本国内の他都市とは違った景観を保持している。

長崎くんち

長崎半島および西彼杵半島を市域とする。諫早市西海市西彼杵郡時津町長与町に隣接する。
市の形状は全国的に見ても数少ない「
すり鉢」状となっている。市の中心部は三方を山に囲まれており、女の都(めのと)・三原・本原・西山・片淵・小島(こしま)・稲佐(いなさ)・小江原(こえばる)・西町・滑石(なめし)など住宅地の多くは山の斜面を利用している。
そのため「階段の街」「坂の街」として有名である。坂が多いため
自転車に乗る人は少なく、他都市でしばしば問題になる放置自転車等の問題は少ない。その代わり原付バイクが多くナンバープレートの登録番号が5桁になっている。また、「自転車屋」を名乗りながらも原付バイクだけを扱う店も多い。

長崎くんち」は長崎の氏神「諏訪神社」の秋季大祭で、毎年10月7日から3日間、長崎の町を挙げて催されます。寛永11年(1634年)に、当時の太夫町(後に丸山町と寄合町に移る)の二人の遊女、高尾と音羽の両人が、諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したことが長崎くんちの始まりと言われています。長崎ではこの年に「出島」埋築が着工され、「眼鏡橋」が架けられています。以来、長崎奉行の援助もあって年々盛んになり、さらに奉納踊には異国趣味のものが多く取り入れられ、江戸時代より豪華絢爛な祭礼として評判だったそうです。現在、踊町は長崎市内に全部で59カ町あり、全町が7つの組に区分されています。奉納踊を出す当番は7年に一度回ってきます。演し物は龍踊、鯨の潮吹き、コッコデショなどがあり、これらの奉納踊は国指定重要無形民俗文化財となっています。 くんちの語源は、旧暦の9月9日を重陽の良き日として祝う中国の風習が伝わり、9日(くにち)をくんちと読み、祭礼日の意味としたとする説が一般的なようです。