自衛隊体育学校web/ストーリー/陸上競歩 谷井孝之

ストーリー 迷彩服を着たアスリートたち
自衛隊体育学校アスリートのドラマ

第95話
 終わりのない伝説 競歩 谷井孝行

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 2014年4月20日、石川県輪島市で行われた第98回日本陸上競技選手権大会50㎞競歩 兼第17回アジア競技大会代表選手選考競技会において、自衛隊体育学校に、この4月に入隊したばかりの谷井孝行2等空曹が冷静なレースを行い、日本歴代2位の記録となる3時間41分32秒で優勝した。谷井はこの優勝でアジア大会代表候補者となり、アジア大会出場を確実にした。谷井はこれまで3度のオリンピックと5度の世界選手権に出場した自衛隊体育学校にすでに入校している山﨑勇喜3等陸尉等と同様、伝説的な競歩選手だ。だが、谷井の競歩人生の道のりは決して平坦ではなかった。何度も転機を迎えその都度成長していった。
 谷井は1983年2月14日、富山県滑川市に産まれた。そのころ、谷井の両親は東京、三鷹で生活しており、出産をするために故郷の滑川へ戻ったのだ。産まれてから、家族は再び東京に戻り、谷井は小学校6年までの幼少期を東京で過ごした。東京にいた頃、2歳から水泳を始め、小学校1年から3年まではサッカーを行っていた。そして小学校5年で始めた野球にのめり込んだ。そして小学校を卒業すると、両親が滑川に戻ることになり、中学校は滑川中学校に進んだ。ここでも、取り組んだのは野球だった。
 だが、1度目の転機が訪れる。中学校3年の時、富山県内の中学校対校駅伝があり、当時校内で1番速いと言う理由で谷井が選手に抜擢され、殆ど長距離の練習をしないままエース区間を5位で走った。それを見ていた、高岡向陵高校の陸上部の先生にスカウトされ、陸上長距離選手として入学することになる。中学時代は野球しかやっておらず、陸上競技は素人だったが、高校に入ったその日から、強豪選手と長距離の練習を始めた。野球では走る練習は当然あるが、長距離競技のための走る練習とは全く違う。谷井は無理がたたったのか、最初の1ヶ月で右足のシンスプリントを疲労骨折してしまう。だが、ここで2度目の転機が訪れる。疲労骨折して、長距離の練習ができないため、当時、この陸上部には2年と3年に1人ずつ競歩の選手がいて、陸上部の先生から、リハビリのために競歩をやってみろと勧められた。もともと陸上競技をやったことが無かったので、言われるがままに競歩を始めたところ、競歩の練習が楽しかったという。当然競歩をやったことがなかったので、1つ1つ指導を受けるが、1つ治すと1つ力があがっていくというように、短期間で成長していることが実感できた。陸上競技というものをやった経験が無く、長距離に固執する理由はなかった。谷井は抵抗無く競歩への道を進んでいった。競歩の練習をはじめて2ヶ月も経たない7月、富山県国体予選(5000m)に出場し、トップと数秒差の2位となり、普通であれば、国体に進めないところだが、2ヶ月の練習でここまで成長を遂げた谷井の競歩の資質がただものでないと判断し、翌月の北陸選手権に国体選手選考を持ち越すことになった。北陸選手権では、国体予選で敗れた先輩選手に完勝し優勝。国体代表になった。だが、国体では5番でゴールをするが、ゴール後失格になっている。そこからさらに谷井はどんどん成長した。高校2年の時には、高校のタイトルを総なめにし、高校の競歩を牽引する存在になった。そしてこの年、ジュニアのナショナルチーム入りを果たし、世界ユースに出場、銅メダルを獲得する。このナショナルチームで小坂忠広コーチ(バルセロナ五輪、アトランタ五輪に出場し、現在は自衛隊体育学校の山﨑勇喜を指導)の指導を受けるようになる。高校時代の華々しい結果を引きさげ谷井は日本大学に進学する。谷井の成長は止まらなかった。大学2年で世界ジュニア(1万m)に出場し7位。大学3年ではユニバーシアードで6位。そして50km競歩初挑戦となる全日本50km競歩高畠大会ではいきなり日本新記録を達成。さらに年が開けて2月の神戸で行われる日本陸選手権20km競歩で優勝し、アテネオリンピック代表に選考される。オリンピック初出場となったアテネでは、20kmで15位、50kmでは失格という結果となったが、谷井の今後に期待が持たれた。だが、大学生活の最後に右大腿部の骨膜炎を患う。この怪我の影響は大きかった。練習を1ヶ月くらい中断せざるを得なかった。そんな中、大学を卒業し、佐川急便社に入社し、社会人としてのスタートを切った。社会人になって練習を再開すると、歩形が乱れていて、直すことが出来ない。谷井はそれまで経験したことの無いスランプに陥っていた。その後、このスランプは5年間も続いたと言う。技術的には、いくら気をつけても歩形がロス・オブ・コンタクト(両足が地面から同時に離れる反則)気味になり、タイムも上がって来なかった。それでも、2005年、2007年、2009年の世界選手権、そして2008年の北京五輪に出場するなど、世界の舞台から遠ざかることは無かった。谷井は選考がかかった大会にピンポイントで、悪いながらも最良の状態に持っていく術をもっており、なんとか派遣標準をクリアしていったという。華々しい競技歴を重ねていたが、谷井は心底苦しんでいた。
 そして、3度目の転機が訪れた。2010年結婚、そして愛娘が誕生。子供が出来たことで精神的な変化が現れ、文字通り一から考え方を変えた。それまでは、全て人頼みで、周りの人から言われると、『ハイ』と聞いて、何の疑問も抱かず全てを取り入れていたのだが、その時期からは、全てを自分でコーチングし、全てのマネージメントを自分で行わなければいけないと考え、練習メニューから、歩形まで、全部自分で納得したものを自分で責任を持って実践していくというスタイルになった。こういった自分自身の改革によって谷井はスランプを脱した。だが、すぐに結果として現れた分けではなかった。だが、競技への意気込みが変わり、自分が進歩、成長していくのが実感できた。競歩は歩形という大きな関門がある。そのため、専門家やコーチから様々なアドバイスを受ける。以前であれば、言われていることの意味が分からなくても、とにかくやってみて、最終的にはできず、何も吸収していないという状態だったが、その頃から、まず自分や自分の動きを理解した上で、他の人が言ったことを自分のやり方や考え方にプラスしていくことが出来るようになり、逆に、いろんな人の言うことが分かったと言う。スランプの時はとにかく、自分が何をしているのか、どうすれば良いのか分からない中で、ただ苦しんでいて、言われていることをただやろうとして消化できない自分がいた。そして2011年の韓国大邱での世界選手権で9位となり、自信も生まれた。そして2012年の4月の日本陸上選手権50km競歩で山﨑に続く2位、タイム的にも3時間43分台という好記録で3度目のオリンピックとなるロンドン出場を決めた。だが、簡単に次に進める訳ではない。ロンドンでは、競技の約10日前にロンドン入りし、着いた次の日に肺気胸を発症させた。最悪の状況だった。もう谷井は出場できないかも知れない。ニュースを聞いた誰もがそう思った。全く動けない中から、競技日の5日前に漸く病床から立ち上がり、オリンピックに向け調整を始めた。そして、8月11日ロンドンオリンピック50km競歩のスタートラインに谷井は立った。この時、谷井は肺気胸が簡単な病気では無いことは理解していた。ちょっとでも痛いと感じたら、そこでレースを棄権するつもりだった。そして結果は、完歩すること無くレース途中で棄権した。だが、谷井は後悔しなかった。逆に、現地入りして重い病気にかかり絶望の中から、スタートへたどり着くために、全力を尽くしてモチベーションを上げ、短期間でコンディションを作るという過程を通し、今までの競技生活で得られなかった貴重な経験を持つことができ、人間的に成長できたのだという。当然、谷井はロンドンで競技生活を終わらせなかった。その後も、オリンピック後も練習を行い。一つ一つ自分が考えた練習を重ね、オリンピックイヤーの翌年にあたる2013年の日本陸上選手権50km競歩では、悪天候の中、優勝。モスクワでの世界陸上では、3時間44分26秒の好タイムで日本人最高位となる9位となった。安定して3時間45分を切れる力をつけ、次の年に記録を伸ばしていくと言う課題を立てていた荒井は、この結果に満足していたと言う。
 そして、4度目の転機が訪れる。これまで谷井は佐川急便社に所属しながら、石川県において1人で練習を行っていた。だが、それは全てをマネージメントしなければならず、練習場所の確保から、その練習場所までの移動も自分でやらなければならない。歩くだけでなく、当然、ウエイトトレーニングやプール等様々なトレーニングを行っていたため、各練習場所から他の練習場所へと自ら車で運転していかなければならず、年を重ねるごとにそれは大きな負担になった。次第により効率的に練習したいと考えるようになったのは自然なことだった。そんな時に、ライバルの山﨑がロンドンオリンピック前に自衛隊体育学校へ入校し、さらに日本では3〜4番手ながら、若く、実力を日増しにつけている荒井広宙も2013年に自衛隊体育学校に入隊した。谷井も、全ての設備と優秀なトレーナーが揃っていて24時間態勢でサポートしてくれる自衛隊体育学校に興味を持ち、入隊を決意した。だが、谷井には家族がいた。所属を変えるのは簡単ではない。自衛隊体育学校への入隊と同時に、練習拠点の石川県から、自衛隊体育学校のある埼玉県まで、引っ越しをしなければならなかった。4月には今年最大の国内大会である日本陸上選手権50km競歩がある。その準備と同時並行で行わなければならず、まだ3歳の幼子を抱えての引っ越しだったので本当に大変だったと言う。だが、自衛隊では官舎を用意してくれ、負担を軽減してくれた。こうして31歳の谷井は航空自衛隊2等空曹として、新たな環境で競技を続けることになった。谷井は、この入隊で環境が変わっただけでなく、大きなプレッシャーを感じたと言う。それは31歳での入隊ということもあり、自分は即戦力として入隊したので、すぐにも結果を出さなければならない、特に初めての航空自衛隊としての体育特殊技能者(2曹採用)であり、結果を出せなければ、後が続かないかも知れない。谷井は4月の日本陸上選手権では是が非でも勝たなければならないと思った。航空自衛官として、インパクトあるデビューを飾りたいと思った。それが、30歳を過ぎて所属を変えた男にとって一つのけじめでもあったのだ。
 4月20日7時30分、美しい街並がならぶ競歩の聖地、輪島市で日本陸上選手権50km競歩がスタートした。谷井のライバルは同じ自衛隊体育学校所属で、日本記録保持者の山﨑と完璧な歩形を持っている荒井だった。山﨑はロンドンオリンピック後の2012年12月に母校の順天堂大学で右ひざ半月板の手術を行い、2年ぶりの復帰戦だった。前日の記者会見では練習を開始して未だ日が浅く、歩形や体力への不安を口にしていた。それでも、日本陸連強化委員原田康弘委員長は「山﨑と言う選手は自信がなければ試合には出て来ないので、ここに来る以上自信があるのだろう」と語っていたが、谷井は山﨑の存在を過剰に意識することなく『1kmあたり4分30秒を安定的に出せる実力はつけていて、今回は4分25秒を目標にし、さらに上を目指し、最終的には3時間42分±1分で歩ききるための準備は出来ている』と語った。冷静な谷井と何があるか分からない山﨑という高校時代から長年のライバルの二人で勝負が争われる予感がした。そして、スタート。最初に前に出たのは谷井だった。1周目の1kmの入りは4分19秒。気象条件が良く、高速レースが予想されるスタートとなった。1周目は谷井が前に出たが、山﨑が黙っていなかった。山﨑は、長いブランクの後の復帰戦で、不安だった歩形が手術後のリハビリ間で徹底して行った体幹トレーニングの成果が出たのかこの日は非常に奇麗で審判からも何の警告も受けなかった。今の歩形で行けると感じたのか、山﨑が2周目で1km4分14秒のペースで飛び出した。山﨑は前日の会見で不安を口にしていたが、調子は悪くなく、歩形さえ問題なければ、密かに日本記録を超えるタイムで優勝を狙おうと考えていた。この山崎のスパートによってレースは、このまま行けば日本新記録を大幅に更新するのではないかという期待がかかるほどの史上稀にみるハイペースのレースとなった。所属を変えたと言っても昨年の世界選手権以降も順調な練習を行ってきた谷井に対して、山﨑の勝ち目は、持ち前のスピードとスタミナで、レースの早い段階で前に出て、主導権を奪い、そのまま逃げ切りを図ろうとするものだった。山﨑にとっては、追う展開、いわば受動に陥ったとき、性格的にも、また、復帰したばかりであり、以前に比べて練習量が少なくなった今となっては、置いていかれてしまう危険性があった。山﨑が前を狙うのは無謀な賭けではなく、計算された作戦であったといえる。以前のように谷井が3時間44〜45分前後の歩きであれば、この山﨑の揺さぶりによって、ペースが徐々に狂いだし、いつの間にか山﨑の独走状態になっていただろう。しかし、谷井は以前の谷井ではない。3時間44分を安定して切る実力は既に有し、さらに今大会では3時間42分で歩くための練習をきっちりとしてきている。そのため谷井は慌てず、自分のペースを守り、計算通りの歩きをしていた。谷井の変化はそれだけではなかった。レース間、谷井の視線は前方やライバルの山﨑ではなく、常に立ち並ぶ家々に向けられていた。それは、コース上に並んだ商店街のそれぞれの商店の窓ガラスや鏡に写る自分のフォームをチェックしていたのだ。かつて、谷井は荒井や富士通の森岡紘一郎選手に比べれば、審判から歩形のチェックを受け易い選手だった。その谷井がこの激しいデットヒートを繰り返す高速レースの中で、歩きながら自分のフォームをチェックしている。谷井は、歩形は競歩という競技にとって切っても切れないもので、常にフォームを気にしていなければならないものだと考えていた。それは、最低限、注意や警告を受けないようにしなければならないのは勿論だが、最良のフォームは歩くにあたって効率が最も優れたものであると谷井は確信していたので、常に良い形を追い求めていかなければならないと考えていたからだ。そのため、レース中といえども、最良のフォームを追い求めて、レース中ずっと、商店街の窓ガラスに写る自分のフォームをチェックしていたのだった。そういった状況の中、山﨑と谷井は一進一退を繰り返していた。中盤、山﨑が再び飛び出した時、谷井は正直、置いていかれると思ったそうだが、慌てて、山﨑に追いつかず、2kmで1〜2秒上げて、じわじわと追いかけていく歩きを選択した。すると次第に距離が縮まっていき、またしても谷井と山﨑は並んで歩く状態になる。さらに終盤、30kmを過ぎたところで、山﨑が猛スパートをかけてきた。だが、この時、谷井は後ろから追い抜いた山﨑を冷静に分析していた。山﨑は、このスパートの時、肩が上がり、歩形が乱れ始めていた。谷井は山﨑のスパートは長くは続かないと読んだ。山﨑はこの時、1km4分20秒を切る勢いでスパートをかけた。だが、慌てたのは山﨑を指導していた小坂コーチだった。小坂コーチは今の山﨑が3時間43〜44分の実力しかなく、3時間42分±1分で歩く谷井を超え、日本記録となる3時間40分切りの勢いで歩いている山﨑に不安を覚えたのだ。今の山﨑は3時間42分を切るだけの歩形もスタミナも不十分だった。山﨑は完全に無理をしていた。その無理は山﨑の歩形に現れていた。このままの状態で歩き続ければ、歩形違反でいつか失格になるか、自滅して途中棄権という形になる可能性があった。小坂コーチは山﨑に歩形の乱れを指摘し、スピードを押さえるように指示を出し、勝負に夢中になっている山﨑にブレーキをかけた。案の定、山﨑は35km過ぎから40kmの間で、徐々に失速していき、当初日本記録を超えるペースだったのが、次第に3時間42分前後で終わるペースですらついていくのが苦しくなっていた。40km以降は、谷井の一人旅となった。結局、谷井は日本歴代2位の記録となる3時間41分32秒でゴールし優勝した。試合を見守った多くの人が途中日本記録を超える3時間40分切りのペースで歩いていたので、日本記録の更新を期待していたが、谷井は、現在の自分の実力が3時間42±1分の実力であると分析していたので、逆にもし40分切りのタイムが出せたら悩んでしまっただろうと試合後語っていた。そのくらいきっちりとした練習、調整、そしてレースをしたのだった。ゴールのテープを切った谷井は、大スランプからの復活のきっかけとなった、愛娘の美渚ちゃん(3)を抱き上げ、これまでの長かった道のりに思いを馳せるように、優しい笑みを浮かべて、勝利の喜びを噛み締めた。ちょうどその時、2位の山﨑がゴールした。山﨑は谷井に離された後、ペースを落として態勢を立て直し、最後にもう一度ペースを上げ、国際大会派遣標準記録である3時間45分06秒を超える3時間44分23秒でゴールし、谷井とともにアジア大会代表候補となり、アジア大会出場をほぼ確実にした。山﨑は、谷井に敗れたとはいえ、まだ、完全に以前の練習メニューに戻っていない中での復帰戦で、この好タイムで、しかも以前と比べて序盤は非常に良い歩形で歩けたということは、山﨑が世界の第一線で戦えることを証明した形になった。30歳を超えて進化し続ける谷井と、復活した日本競歩の第一人者の山崎、さらに、今大会では記録的には不満足とはいえ、極めて奇麗で安定した歩形を持つ荒井。自衛隊体育学校の競歩はそれぞれが最大のライバルと言う関係で、これからリオ・オリンピックを目指すことになる。ただ、オリンピックでメダルを狙うためには、少なくとも3時間37分台を出す力がないと難しい。谷井は来年にはとにかく39分台を何が何でも4月のこの大会で出し、その後の1年をかけて安定して39分台で歩けるようにして、リオの時点ではメダルを狙える位置にいられるようにしたいと考えている。意地がある山﨑は、谷井の進化に触発されて、誰にも真似ができない猛練習で、再び日本競歩の第一人者の地位に返り咲こうとするだろう。自衛隊体育学校は、陸上競技ではオリンピック入賞レベルの可能性を有した有力種目である競歩で、何時の間にか頂点に位置する所属チームとなっていた。谷井の加入が山﨑や荒井に大きな影響を与えるのは間違いない。谷井が伸びていく分だけ、山﨑や荒井も伸びていく。谷井の今後の成長に期待したい。
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