自衛隊体育学校web/ストーリー/陸上・競歩 山崎勇

ストーリー 迷彩服を着たアスリートたち
自衛隊体育学校アスリートのドラマ

第64話 
 国家プロジェクト「山﨑勇喜を復活させろ!」

山﨑勇喜のプロフィール
生年月日:昭和59年1月16日
出身:富山県
入隊:平成23年4月
階級:2等陸曹

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 2011年4月、自衛隊体育学校に日本陸上界の至宝と呼ばれる男が入ってきた。日本陸上競技競歩の第1人者山崎勇喜、その人だ。だが、入隊当時の山崎は、その前の年、2010年6月に負傷した右膝が完治していない状態で、手術をすべきかどうか迷い、競技に復帰できる見通しが見えない段階だった。それが、10月30日山形県高畠町で行われた全日本50km競歩競技大会で、今シーズン日本人ベスト、オリンピック派遣標準記録を突破する3時間44分03秒で優勝。オリンピックでメダルを狙えるのは山﨑しか日本にいないことをアピールした。
 山崎は、そもそも中学時代はサッカー部に所属していた。山崎の6つ上の兄智久の影響で陸上をやりたいと思っていたが、兄の「陸上を始めるのは高校に入ってからでも遅くはない、中学時代は色んな種目に取り組んでいた方が良い」というアドバイスに従った。それでも、県の中学校対抗駅伝等には出場するくらい学校では脚が速い方だった。中学校を卒業すると、全国高校駅伝には毎年出場している陸上競技の名門富山商業高校に入学。いよいよ陸上を本格的に始めることになった。しかし、入部して1週間で怪我をして、トレーニングどころか怪我のリハビリに明け暮れることになる。そうした2ヶ月が過ぎた6月頃、陸上部小林正樹監督から「君は走るセンスがない、競歩なら華が咲くかもしれない、競歩をやるかマネージャーになるか自分で選びなさい」と言われ、競歩に転向することになった。小林監督は競歩をしたことがなかったが、長距離の指導では定評があり、この学校の陸上部を強豪校に育て上げていた。よくわからないまま山崎は競歩を始めていたが、その年の9月に行われた県大会で優勝。競歩はスピードだけの勝負ではなく、ルールとの戦いという側面もある。常にどちらかの脚が接地していなければならず、両脚が地面からはなれれば反則(ロス・オブ・コンタクト)と、着地する前脚がまっすぐ伸びていなければならず、脚を曲げれば反則(ベント・ニー)になるというルールにより、常に審判員のチェックが行われ、警告を3回受ければ失格となる。そういう意味で難しいスポーツだ。だが、山崎と競歩の相性は良かった。小林監督の直感は間違っていなかった。高校に競歩の専門的に指導できる人はいなかったが、陸上部は長距離で有望選手が多く、刺激を与えられ、ハードな練習に取り組める環境だったと言う。この環境が山崎をどんどん進化させていった。高校2年の日本ジュニア選手権で優勝、世界ジュニア選手権代表に選考され、初めてナショナルチーム入りを果たす。この世界ジュニアの経験が、山崎を世界へと目を開かせ、競歩に取り組む意識が変わった。また、ナショナルチームに入ることで、競歩の第1人者斎藤和夫コーチの指導を受けることになる。斎藤は山﨑の素質を見抜き、シニアチームが行うメキシコへの高地トレーニングにも帯同した。山﨑はより高度なトレーニングが受けられる様になった。ますます山崎は強く磨かれていった。3年の時には、20kmの全日本選手権で高校生として史上初の優勝。一気に日本のエースに上り詰めた。
 そして、陸上の名門順天堂大学に入学すると、オリンピック2大会出場の経験を持つ小坂忠広コーチ(バルセロナ五輪、アトランタ五輪出場)の指導を受ける。そして、大学2年の時、20歳になった山崎は、50kmのレースに初出場する。当時は、規定で、50kmには20歳以上でなければ出場できなかった。その初めての50kmのレースとなる全日本選手権で優勝。アテネオリンピック派遣標準も突破し、競歩を初めて5年でオリンピックの出場権を得た。初めてのオリンピックはまさに山崎にとって夢の舞台となった。オリンピックは他の国際試合とは全く違ったものだった。独特の雰囲気があり、信じられない盛り上がりが随所に巻き起こり、高揚感と得体の知れない重みにさらされた。それでも山崎は地力を発揮し、初めてのオリンピックで16位の成績をおさめた。これは日本陸上競歩ではオリンピック歴代最高位であった。山崎は日本競歩界のレジェンドになった。入賞には届かなかったものの、山崎は達成感を覚えた。だが、その後、自分の種目以外の試合会場に足を運び、表彰式を見て、改めて、メダルを狙える選手になりたいと思ったという。
 オリンピックが終わるとメダルに向かって練習を再開し、内容はよりハードなものになっていった。日本の競歩のエースとなった山崎は、大学を卒業すると、高校時代ナショナルチームのコーチとして指導を受けていた斎藤和夫コーチがいる長谷川体育施設に就職する。入った直後の4月に行われた日本選手権において、山崎は日本新記録の3時間43分38秒を記録。北京オリンピックでのメダル獲得に向けた絶好の社会人としてのスタートを切った。だが、斎藤コーチが6月に急逝する。斎藤コーチの後を受けて山崎を指導することになったのは、実業団のダイハツ女子チームの監督だった鈴木従道コーチ(メキシコ五輪1万m日本代表)だった。鈴木コーチは競歩の経験はないものの、ダイハツ女子チームを徹底的な管理とハードな練習メニューを妥協を許さず実行させ、日本有数の実力チームに育て上げた経験を有していた。競歩の山崎にも手法を変えずに、強烈な勢いで文字通り鍛え上げていった。山﨑は今までとは違う練習方法に戸惑ったものの、簡単に弱音を吐くような弱い根性の持ち主ではない、山崎は鈴木氏の練習にどこまでも着いていった。山﨑はこの鈴木コーチのトレーニングによって本当に強くなった。それは2008年北京オリンピック選考会となった全日本選手権で2度目の日本新記録となる3時間41分55秒を達成。オリンピックのメダル圏内が40分台と想定されるので、山崎は十分メダルを狙える位置まで来ていた。
 そして、北京オリンピック。だが、メダルを狙おうとするプレッシャーからか、極度の緊張状態に陥り、レース前にはお腹をこわす体調不良に見舞われた。それでも山崎はメダルを狙うべく、最初からトップ集団に着いていった。だが、競歩はスピードだけで勝負する競技ではない。中盤から後半にかけて、山崎は2度の警告を受ける。スピードを上げると歩形が崩れを見せることがある、スピードと正確な歩形、このバランスで競歩は争われる。3度警告を受けたら失格となるため、山崎はスピードを緩めざるをなくなり、トップ集団から脱落し、第2集団に落ちざるを得なくなった。トップ集団へのジャッジは他の選手以上に厳しいことは理解していたが、それ以上に第2集団からトップの選手を眺めてみると、トップの選手たちの歩形の奇麗さに驚いた。自分とトップ選手たちとの間にはっきりとした差があることを山崎は感じたという。それでも山崎は7位入賞。日本の競歩では史上初のオリンピック入賞を成し遂げた。山崎は北京オリンピックが終わった時、スピードと正しい歩形を作り上げるテクニックのバランスをとれた練習をしなければならないことを痛いほど身に詰まらされた。それでも山崎はオリンピック直後、緊張感がなかったためと言うものの、10月末に行われた高畠のレースで3度目の日本新記録となる3時間41分29秒を達成。そして2009年4月の全日本選手権で日本人初の40分台となる3時間40分12秒の日本新記録を達成。山崎の競歩は進化していった。
 だが、どんどんと成長していく中で、山崎は2009年秋、初めての大きな故障を経験する。左膝の肉離れだ。小さな怪我はあったものの、高校から始めた競歩で大きな怪我に見舞われることはなかった。1ヶ月練習できなかったという。この怪我を契機に、怪我が治りかけると、他の部位が故障する、怪我のスパイラルに落ちていった。山崎は、根性のある選手なので、どうしても練習を無理してやってしまう。それが一つの理由であったのかもしれない。そういった不安定な状態で2010年右膝を故障してしまう。故障は大腿部から半月板まで本当にひどい状態だったという。山崎はその年のアジア大会を棄権してしまう。山崎は競歩の練習から離れ、JIISでのリハビリに明け暮れる生活になった。だが、そのJIISでは、オリンピックでも実績のある有名なアスリートたちが様々な怪我を抱えリハビリとトレーニングを繰り返していた。人間の限界に常に挑戦するアスリートは故障がつきまとう。それにめげずに戦っていかなければならないことを山崎は、彼らと言葉を交わし、時に彼らに励まされていくあいだに悟っていった。山崎はこのリハビリの中で、アスリートとして、そして人間として成長していった。
 そんな中、新たな転機が訪れた。故障を抱えた山崎を24時間つま先から頭の先までサポートできる環境、自衛隊体育学校への入隊だった。日本陸上界は日本の至宝山崎を、完全なサポート体勢がとれる自衛隊体育学校に託しロンドンオリンピックに備えようと考えた。ある意味で山崎を復活させることは国家事業だった。山崎はそれだけの選手だ。
 山崎は入隊し、自衛隊体育学校のサポート体勢の中で、復活に向けたプロジェクトに身を委ねた。故障を完治するには手術が必要だったが、来年のオリンピックには間に合わない。故障を抱えたまま競技を続けるしかない。それだからこそ余計に完全なサポート体勢が必要だった。監督平田和光3等陸尉、コンディショニングトレーニングコーチ佐久間日出貴1等陸曹の24時間態勢のサポートときめの細かい復帰に向けたトレーニングメニューのおかげで、少しずつ歩ける様になっていく。さらに山崎はこのサポート体勢以上に驚いたのは、体育学校にいる選手たちが、当たり前の様に連日世界選手権等の国際舞台で大きく活躍していることだった。山崎は、体育学校に所属している中で、そういった刺激を受け、自分の励みにした。
 そして、10月30日全日本50km競歩競技高畠大会。コーチたちは来年の全日本を照準にして、今回はとりあえず完歩できれば良いくらいに考えていたが、予想以上に、山崎の体調が回復し、山崎自身は、最低でも、今年の世界陸上で6位入賞しオリンピック代表に内定した森岡紘一朗選手(富士通)の今シーズンベストは破りたいと考えていた。強豪選手もなく、大きなプレッシャーもなかったためかいつも以上にリラックスしたレースが行えた。そのため、スピードがどんどん上がったという。だが、終盤警告を2度受け、スピードを緩め、余力を残してゴールする。それでも記録は3時間44分03秒、この記録はオリンピック派遣標準記録を超えるもので、今期日本人ベスト、世界ランキング9位、昨年なら世界3位の記録だ。
 山崎は競技ができない長く苦しい生活から、復帰できホッとした気持ちになった反面、まだ、世界との距離を痛感した。オリンピックでメダルを取るためには38分以上が必要だ。そのためには今以上の筋力アップと、警告を受けない歩形を作らなければならない。だが、故障は完治した訳ではない、故障を抱えたまま、競技を続けなければならない。山崎の目標が高いだけに、山崎の焦りは誰もが知り得ないほど大きい。だが、山崎は並の選手ではない。困難を克服することができる強い精神力を持っている。日本の陸上は今年の世界陸上でも顕著だった様に、オリンピックでは苦戦を強いられる可能性が否定できない。その中で、山崎の存在は小さくない。山崎がメダルを狙うのは山崎個人の問題ではない、日本陸上競技の将来への展望として、そして自衛隊体育学校として、そして日本国家としての挑戦だ。山崎のつらく過酷な日々は続く。