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陸上自衛隊北部方面隊第7師団

戦車博物館



戦車の歴史

 第1次世界大戦に登場した戦車の威力は、当時の各国に大きなショックを与え、各国とも戦車の必要性を認めて、相次いで戦車隊が創設されるようになった。わが国もその例外ではなく、戦車に対す関心・重要性が高まり、「試製第1号戦車」が誕生しました。

日本における戦車の開発及び試製1号戦車

89式中戦車の誕生(ルノーを輸入)
 大正時代初期、日本においては輸入戦車による戦車部隊編成の考え が主流であったが、大正7年(1918年)イギリス製マークW、ホイペットA型中戦車及びフランス製ルノーFT6t戦車を輸入し、研究した結果、とりあえずルノーFTを訓練用として購入し、我が国独自の戦車の開発を進めることになった。

試製1号誕生
 陸軍は、大正14年(1925年)6月から設計を開始し、僅か2年後の昭和2年(1927年)3月に第1号車を完成させた。性能諸元は、重量18.0t、乗員5名、最大速度20.0Km/h、主武装 試製57mm砲副武装 軽機関銃×2、エンジンV型8気筒空冷ガソリンエンジン140馬力

89式中戦車(甲)(乙)の完成

 その後、この試製2号車に改良(改弱?)が加えられ、昭和4年4月試製2号車が完成、数次にわたる技術試験を経て同年(1929年=紀元2589年)10月、我が国初代の主力戦車89式中戦車(甲:ガソリンエンジン)が竣工した。主要諸元は、11.5t、25Km/h、37mm砲×1、装甲15mm、超壕能力2.0mエンジン出力 140hpであった。これは、試製1号車よりも軽量小口径化してしまった。引き続き改良を加え、昭和10年には、世界に冠たる空冷ディーゼルエンジンを搭載した89式中戦車(乙)を竣工させた。
1916年、戦車が初めて戦場に登場して以来、人類は戦争のたびに戦車に改良を加え、逐次強力な武器に育て上げ、遂に第2次世界大戦において陸戦の王者として不動の地位を占める端緒についた。


戦車の歴史年表

1927年(昭和 2年) 試製第1号戦車
1929年(昭和 4年) 試製第2号戦車 89式中戦車イ号 89式中戦車甲型
1932年(昭和 7年) 92式重装甲車
1934年(昭和 9年) 94式軽装甲車ホ号 89式中戦車乙型
1935年(昭和10年) 95式重戦車 95式軽戦車ハ号
1937年(昭和12年) 97式軽装甲車 97式中戦車チハ 試作中戦車チニ
1939年(昭和14年) 98式軽戦車ケニ
1940年(昭和15年) 試製超重戦車オイ 97式中戦車改チハ
1942年(昭和17年) 1式中戦車チヘ 2式軽戦車ケト
1943年(昭和18年) 3式軽戦車ケリ
1944年(昭和19年) 3式中戦車チヌ 4式中戦車チト 4式軽戦車ケヌ
1945年(昭和20年) 5式中戦車チリ
1961年(昭和36年) 61式戦車
1974年(昭和49年) 74式戦車
1990年(平成 2年) 90式戦車
2010年(平成22年) 10式戦車

10式戦車と現有の90式戦車・74式戦車・61式戦車(退役済)

10式戦車 90式戦車 74式戦車 61式戦車
全 長 9.42m 9.80m 9.41m 8.19m
全 幅 3.24m 3.40m 3.18m 2.95m
全 高 2.3m 2.3m 2.25m 2.49m
重 量 約44t 約50t 約38t 約35t
主 砲 44口径120mm滑腔砲
※90式戦車より高威力
44口径120mm滑腔砲 51口径105mm
ライフル砲
51口径90mm
ライフル砲
装 甲 複合装甲(正面要部) 鋳造鋼(砲塔)圧延防弾鋼(車体) 
エンジン 水冷4サイクルV型
8気筒ディーゼル
水冷2サイクルV型
10気筒ディーゼル
空冷2サイクルV型
10気筒ディーゼル
空冷4サイクルV型
12気筒ディーゼル
最大出力 1.200ps/2.300rpm 1.500ps/2.400rpm 720ps/2.200rpm 570ps/2.100rpm
最高速度 70Km/h 53km/h 45km/h
懸架方式 油気圧式(能動型) トーションバー
油気圧ハイブリット式
油気圧式 トーションバー式
乗員数 3名 4名
装填方式 自動 手動
C41 × ×

89式中戦車イ号
1927年に、日本初純国産戦車(試製第1号戦車)が開発され、重量が当初の計画の12tを大きく上回る18tにも達したため、新たに10t級の軽戦車を開発することになった。その絶対条件は、「戦闘重量10t」である。重量軽減のため、試製第1号の成果を元に、1927年に輸入したイギリスのビッカーズC型中戦車を参考に模倣されることになった。開発は、1928年3月に始まり、同年4月に着手され設計図面ができあがり、陸軍造兵厰大阪工廠に発注さ れ、1929年4月に試作車(試製89式軽戦車1号機)が完成した。 最初の試作車は、予定通り重量が9.8tにおさまったため軽戦車に分類されたが、度々改修が施され、最終 的な完成形では、車体重量が11.8tとなり、分類基準の10tを超えたために1934年に中戦車に再分類され、八九式中戦車と呼ばれるようになった。ちなみに、八九式中戦車甲型は(1929年)はガソリンエンジンで、八九式中戦車乙型(1934年)には、ディーゼルエンジンが搭載された。生産数は、甲型が220両、乙型が184両以上で、八九式中戦車は1939年(昭和14年)まで生産された。主要諸元は、重量 11.8t、懸架方式 リーフ式サスペンション、最高速度 25q/h主武装 九〇式57mm戦車砲、副武装 九一式6.5mm車載軽機×2である。

 戦場  満州事変(1931年)
     第1次上海事変(1932年)
     ノモンハン事件(1939年)
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95式軽戦車ハ号
日本軍は、1920年代末に初の本格的な国産戦車である八九式中戦車を開発し、最高速度25Km/hで走行することが可能だった。しかし、歩兵輸送トラックの著しい技術的進歩により、広大な中国大陸での悪路、路外において、低速な八九式中戦車は歩兵について行けない事態となり、八九式中戦車の後継車両の必要性が高まり、装輪・装軌併用式の戦車の開発が検討された。重量7t以内で路上最大速度40Km/hという要求仕様がだされて、1933年6月から設計が開始され、1934年6月に試作第1号が完成した。 この試作第1号は路上最大速度40Km/hという要求速度は達成したものの、重量は7.5tと要求をオーバーしてしまった。そこで、改修型試作車が製作され、車体から贅肉を削って重量を6.5tまで減じ、1934年10月に陸軍騎兵学校に交付された。その後、改修型試作車は1936年11月に完成し、「九五式軽戦車」として制式化された。
 性能諸元は、重量 7.4t、乗員 3名、最大速度 40Km/h(31.7Km/h「定路」)、主武装九四式37mm戦車砲、副武装 九七式7.7mm車載重機関銃×2、エンジン 三菱A六ー二〇Vde空冷直列6気筒ディーゼル120hp(最大)11

 戦場  ノモンハン事件(1939年)
     マレー作戦(1941年)
     タラワの戦い(1943年)
     ペリリューの戦い(1944年)
     サイパンの戦い(1944年)
     硫黄島の戦い(1945年)
     沖縄戦(1945年)
     占守島の戦い(1945年)     
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97式中戦車チハ
九七式中戦車チハは、第2次世界大戦時の日本軍の戦車、八九式中戦車の後継中戦車として、1930年代後半に開発・採用された。
八九式中戦車は満州事変以来、満州と中国で活躍していたが、実戦で使ってみると様々な問題があり、当面は改修作業で対応していたが、高速な九〇式軽装甲車や九五式軽戦車が投入されるようになると低速な八九式中戦車は追随することが困難な事態となり、より高速な新型中戦車の要求が高まった。そこで1935年に試製中戦車の研究方針が決定され開発が始まった。
 開発にあたり新型中戦車は、大出力・重装甲(チハ車)とするかそれとも小型軽量で多数整備(チニ車)するかであったが、双方のコンセプトに沿った車輌を試作し比較試験することになった。 チハ車は三菱重工業が、チニ車は大阪砲兵工廠に発注された。(試作車は1937年6月に完成)試験結果はどちらも概ね良好とされたが、比較的大重量だが性能に優れる三菱製のチハが制式採用された。性能を絞って軽量を目指した陸軍造兵廠大阪工廠製のチニは試作のみで中止されることになった。
 主要諸元は、重量15t、乗員4名、最大速度38q/h、主武装九七式五糎七戦車砲(口径57mm・18.4口径)ないし一式四十七耗戦車砲(口径47mm、48口径)、副武装 九七式車載重機関銃(口径7.7mm)×2、エンジン 三菱SA−二二〇〇VD 空冷V型12気筒ディーゼル 150hp/1,500rpm、170hp/2,000rpm

戦場   マレー作戦 (1941年)
     ビルマ攻略戦(1941年)
     硫黄島の戦い(1945年)
     占守島の戦い(1945年)
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98式軽戦車ケニ
九八式軽戦車はケニは、九五式軽戦車の後継車両として開発され、火力、装甲、性能などより優れた軽快な戦車であることが要求された。開発は、1938年から設計が開始されたが実際の試作車の完成は、1939年にずれ込んだ。開発に当たっては、九五式軽戦車の後に作られた九七式中戦車の技術を取り入れたといわれるが、外見は、どちらかというと九七式軽装甲車に近い。九八式軽戦車は、九五式軽戦車と比較して車体全高が低く抑えられ、また装甲板の接合に溶接を取り入れたことで、最大装甲厚が九五式軽戦車の12mmから16mmへと強化されているにもかかわらず、重量も軽減された上に速度も向上した。被弾経始にも考慮され、九七式中戦車のように砲塔や車体上部が斜めの装甲板に囲まれている。足回りは、開発時点でクリスティー式サスペンションを備え、被弾にも強くなっている。
 性能諸元は、重量 7.2t、乗員 3名、最大速度 50Km/h 主武装 一〇〇式37口径37mm戦車砲、副武装 九七式車載7.7mm重機関銃</FONT>

 戦場 なし(製造台数2年間113両のみ)
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1式中戦車チヘ
1式中戦車は、第2次世界大戦時の大日本帝国陸軍の中戦車で、基本的に九七式中戦車の改良型で、九七式中戦車から多くのコンポーネントを流用していたため、一式中戦車と同じ砲塔を搭載する九七式中戦車改と外見は良く似ていたが、細かく見ると各所に違いがあった。<BR>
 まず、車体前面が九七式中戦車は大量のリベットで接合されているが、一式中戦車は溶接や平面ボルトによって接合している、車体及び砲塔正面の装甲厚が倍の50mmに強化された。
 ヘッドライトは、九七式中戦車では車体前面部中央に1個装備していたが、一式中戦車は左右フェンダー上に1個ずつ計2個装備していた。又、車体の長さが長くなった。<BR>
  性能諸元は、重量 17.2t、乗員5名 最大速度 44km/h、主武装 一式48口径47mm戦車砲、副武装九七式車載7.7mm重機関銃×2、エンジン 統制型一〇〇式4ストロークV型12気筒空冷ディーゼル

 戦場 なし
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2式軽戦車ケト
二式軽戦車ケトは、1941年に試作が開始された車両で、基本的には九八式軽戦車ケニの改良型である。
 九五式軽戦車の後継車両として1939年に試作車が完成した九八式軽戦車であったが、その性能にはまだ不十分な点が残されていた。主砲に採用された一〇〇式三十七粍戦車砲は、九五式軽戦車の後期型に搭載された九八式三十七粍戦車砲と大して差はなく、また防護上の効果を狙った円錐型の砲塔は狭すぎると不評であった。これらの点を改良して作られた試作車は1941年に完成し、翌1942年に「二式軽戦車」と名づけらた。<BR>
 性能諸元は、重量7.2t、乗員3名、最高速度50Km/h、エンジン 統制型一〇〇式4ストローク直列6気筒空冷ディーゼル

 戦場 なし
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3式軽戦車ケリ
日本陸軍が開発した軽戦車としては、予想以上に成功を収めた九五式軽戦車であったが、1941年12月に開戦した太平洋戦争に投入してみると主砲の37mm戦車砲が火力不足であることが、前線から指摘された。このため、主砲を九七式中戦車(チハ車)と同じ57mm戦車砲に換装して火力の強化が図られることになった。
 この結果開発されたのが、三式軽戦車ケリで車体や砲塔は九五式のものがそのまま用いられている。このため、砲塔内が非常に狭くなり、常人では砲塔内に入ることすら困難になり、実用性に欠けていたため試作のみに終わった。実戦には未参加。
 性能諸元は、重量 7.4t、乗員 3名、最大速度 40Km/h、エンジン 三菱A6120VD4ストロ−ク直列6気筒空冷ディーゼル、主武装 九七式18口径57mm戦車砲、副武装 九七式車載7.7mm重機関銃

 戦場 なし(試作のみ) 
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3式中戦車チヌ
チハ車(九七式中戦車)の後継車両であるチヘ車(一式中戦車)の開発は、1943年6月には終了し、1944年春から量産が開始された。<BR>
 これでようやくアメリカ軍のM3軽戦車には近距離で対抗できるようになった。しかし、1943年末からアメリカ軍はM4中戦車を太平洋戦線に大量に配備した。アメリカ軍戦車の前面装甲はM3軽戦車の50mmから一挙に80mmへと厚くなっており、これではチヘ車が装備する一式四十七耗戦車砲では貫徹不可能となる。そのため、これに対抗する新鋭戦車が必要となっていたが新型の四式中戦車チトと五式中戦車チリは開発中で量産はまだ先のことだった。そこで1944年5月に一式中戦車の武装を更に強化した三式中戦車が開発されることになり、試作車は1944年9月に三菱重工で完成し、10月に量産に移された。
 主要諸元は、重量 18.8t、乗員 5名、最大速度 38.8q/h、主武装 三式七糎半戦車砲U型(口径75mm・38口径)、副武装 九七式車載重機関銃(口径7.7mm)、エンジン 統制型一〇〇式4ストロークV型12気筒空冷ディーゼル
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4式中戦車チト
1937年に九七式中戦車(チハ)が制式化された後、陸軍技術本部は、数種類の後継中戦車の開発を推進し、1942年(昭和17年)9月完全な新規車両として陸軍兵器行政本部開発方針により47mm戦車砲を搭載する新中戦車(甲)を開発することが決定された。これが後の四式中戦車チトの原型である。
 当初、新型中戦車(駆逐戦車を除く)としては、2種類が計画された。1つはすでに開発の最終段階にあった47mm戦車砲装備のチヘ車(一式中戦車)で、もう1つが長砲身57mm戦車砲装備の新規設計のチト車(四式中戦車)である。
 チト車の開発はチヌ車(三式中戦車)よりも比較的早く、1942年後半から着手され、この時期はまだ戦況がそれほど悪化していなかったこともあって、チト車の研究開発には十分な時間をかけていた。チト車は九七式中戦車に始まって三式戦車に至る同一車体を利用したそれまでの中戦車群とは全く異なり、新設計の強力な戦車であった。
 最初47mm戦車砲搭載として計画されたチトは、昭和18年7月に長砲身57mm戦車砲搭載に開発方針が変更され、更に開発途中で長砲身75mm戦車砲を搭載することになった。装甲に関しても最大装甲厚75mmとようやく列強の中戦車並の装甲厚となり「欧米列強に遅れること約3年でやっと日本もドイツのW号、ソ連のT−34、アメリカのM4並の中戦車を手に入れることになったのである。
 主要諸元は、重量 30.0t、乗員 5名、 速度 45q/h、主武装 五式53口径75mm戦車砲、副武装九七式車載7.7mm重機関銃×2、エンジン 三菱AL 四式4ストロークV型12気筒空冷ターボチャージド・ディーゼル

 戦場 なし(2両のみの生産) 
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4式軽戦車ケヌ
三式軽戦車ケリは、九五式軽戦車の小さな砲塔に直接九七式57mm戦車砲を搭載したため、砲塔内に余裕が無く、操作性に問題があって実用的ではないことが判明した。そこで、九五式軽戦車の砲塔を、九七式中戦車チハを九七式中戦車改や自走砲へ改造すること<IMG で余剰になっていた、九七式中戦車の砲塔に、主砲ごと丸ごと置き換えることで、この問題を解決した。火力強化を目的に、非力になった戦車の車体と要らなくらった砲塔を組み合わせ開発された。九五式軽戦車より全高は20cm、重量は1t増加している。試作車両が製作された他、本土決戦用に少数が配備されたのみで実戦には参加していない。性能諸元は、重量 8.4t、乗員 3名、最大速度 40Km/h、エンジン 三菱A六−二〇VDe空冷直列6気筒ディーゼル120hp/1,400rpm 135hp/2,000rpm

 戦場 なし
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5式中戦車(チリ)
 五式中戦車(チリ)は、戦局を逆転させるべく密かに開発された戦車で、本土決戦の準備が叫ばれている時期において、列強の戦車と比較して優るとの劣らない「決戦兵器」として開発された。
 具体的な開発は、1943年7月の「兵器行政本部研究方針」の変更により始まり、1942年9月の兵器行政本部研究方針の中で57mm戦車砲搭載の新中戦車(乙)として構想されたものが原型である。これは固定砲塔形式の駆逐戦車であったが、上記の方針の変更により75mm戦車砲搭載の35t級戦車に要求が引き上げられた。先に試作された超重戦車(オイ車)の経験からこれに代わるものとして計画された。ところが時代の発展と用兵思想の進歩や変化により、戦車も従来の歩兵支援用や重戦車にあるトーチカ破壊を主目的にした思想から脱皮し対戦車戦闘を主眼とした大口径・高初速砲を装備する方針に変化していった。主要諸元は、重量 35.0t、乗員6名、最大速度 42q/h、主武装 五式53口径75mm戦車砲、副武装一式46口径37mm戦車砲 九七式7.7mm車載重機関銃×2、エンジン九八式4ストロークV型12気筒液冷ガソリン

 戦場 なし
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61式戦車
1953年(昭和28年)から研究が開始され、「米軍のM47を目標に、90mmガンを装備する30t前後の戦車」を目途に、1956年に第1次試作、1960年に第2次試作を完了し、1961年4月「61式戦車として制式化され、1975年までの間に560両が生産された。また、日本の地形に起伏が多く、平地が少ないという日本の国情に合わせて、待ち伏せを主戦法とする戦車駆遂軍的な思想が設計に取り入れられ、日本国産初の主力戦車としては歴史的・戦略的意義には大なるものがあった。主要諸元は、重量35t、乗員4名、主武装90mmG,570馬力空冷ディーゼルエンジン、最高速度45km/hであり、関連車種として67式戦車橋、70式戦車回収車がある。
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74式戦車
61式戦車の90mmGは、その開発当初から早晩旧式化することが分かっていたが、諸般の事情からあえて制式化されたものであり、後継車種の開発が望まれいた。1965年(昭和40年)以来、エンジン、トランスミッション、射統装置、戦車砲等の部分試作が始まり、1968〜69年に第1次試作2両、第2次試作4両が製作され、1974年9月に74式戦車として制式化された。毎年50〜60両ペースで生産され、平成3年(1991年)3月879号車(量産型としては873両)をもって生産を終了した。また、74式戦車は61式戦車の後継として開発され、第2世代主力戦車に分類される戦車で部内での愛称は「ナナヨン」なお、関連車種として、78式戦車回収車、87式自走高射機関砲及び91式戦車橋などがある。主要緒元は、重量38t、乗員4名、主武装105mmG、720馬力空冷2サイクルディーゼルエンジン、最高速度53km/hで、油気圧式懸架装置による姿勢制御、潜水渡渉、及びレーザ測距・弾道計算機搭載による射撃統制装置に特徴がある。
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90式戦車
「外国のどの戦車にもひけをとらず、全てにおいて新規開発の最先端技術を盛りこむ」という大方針のもと研究開発が進められ、1979年システム設計が開始され、1981年部分試作、1985年第1次試作、1987年第2次試作が完了し、1990年(平成2年)8月6日「90式戦車」として制式化された。なお、関連車種として90式戦車回収車がある。90式戦車は、その制式化時点において列国のどの戦車にも勝るとも劣らない最新の技術を駆使した傑作戦車であり、1993年度末の装備数は76両である。また、1990年(平成2年)度から2009年(平成21年)度までに61式戦車の全てと74式戦車の一部を更新するために341輌が調達された。主要諸元は、重量50t、乗員3名、主武装120mmSB(滑空砲)1500馬力水冷10気筒2サイクルディーゼルエンジン、最高速度70Km/hで、油気圧懸架とトーションバー併用のハイブリット懸架方式、水中排気方式による潜水渡渉、自動装填装置、各種センサー(風向・速、装薬温度、砲耳軸傾斜、砲歪み等)・デジタル計算機・捏線映像装置・照準具安定装置採用による夜間・走行間射撃の可能及び精度向上、及び複合装甲・レーザー検知装置・個人給気式CR防護装置等の採用による防護力の向上等が主要な特徴である。
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10式戦車
陸上自衛隊の最新の国産主力戦車であり、国産の自衛隊装備品としては4代目である。自衛隊は第3世代の90式戦車を上回る、第4世代戦車と定義している。開発は防衛省技術研究本部、試作・生産は三菱重工業が担当した。戦闘力の総合化、火力・機動力・防護力の向上、小型・軽量化などを達成し、2009年(平成21年)12月に「10式」と命名された。主砲には日本製綱所の国産44口径120mm滑腔砲(軽量高腔圧砲身)を備え、新型の国産徹甲弾の使用により貫徹力を向上させている。また、90式戦車と同様に自動装填装置を採用し、乗員は車長・砲手・操縦手の3名である。小型・軽量化と応答性・敏捷性の向上のため、水冷4サイクルV型8気筒ディーゼル機関と油圧機械式無段階自動変速操向機(HMT)を組み合わせた動力装置(パワーパック)を搭載する。また、全国的な配備・運用のために車体を小型軽量化したことで重量は約44tに抑えられており、更に着脱が容易なモジュール型装甲を実装している。日本の戦車・戦闘車両としては初めてC41システムを装備したことも特徴である。平成22年度(2010年)より調達が開始されており、平成23年度(2011年)より富士教導団戦車教導隊などから順次部隊配備される。平成24年(2012年)に量産第1号車が富士学校機甲科部に引き渡された。
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〒066-8577
北海道千歳市祝梅1016

TEL 0123-23-5131(内線 2247)
e-mail address
[email protected]

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