宇治駐屯地 歴史

宇治駐屯地

関西補給処_宇治駐屯地_歴史 宇治駐屯地が所在する宇治市は京都盆地の東南部に位置し、京都市や大津市などに接しており、面積は約67万Ku、人口約19万人の京都府南部の中核都市です。
この駐屯地は明治27年、日清戦争を契機に旧陸軍 造兵廠宇治火薬製造所として発足しました。
日露戦争後には、火薬製造所の分工場が設置されており、現在の京都大学宇治キャンパス、黄檗山一帯を含めた火薬製造所の総面積は、現在の宇治駐屯地の約3倍であり、従業員も約4,700名おりました。
そして大東亜戦争終戦まで多種多様な火薬類の製造を行っていました。
終戦後は、米軍に接収され、昭和22年からは日本薬品化成会社が農薬等を生産していましたが、昭和24年に同会社が閉鎖され、その後、敷地は国に返還されました。
昭和26年に警察予備隊唯一の管理補給部隊として設立され、幾多の変遷を重ね、昭和29年に関西地区補給処として改編され、昭和55年にほぼ現在の体制が確立しました。
平成10年には、補給統制本部の新編に伴い関西補給処と名称が変更され、平成16年には後方支援体制の見直しに伴い、物別から機能別の編成となり、現在に至っています。
現在の面積は約12万坪で、甲子園球場約10個分の広さです。

展望塔

関西補給処_宇治駐屯地_歴史 展望塔は明治28年(およそ120年前)の日清戦争の時代に「陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所」の水槽塔として建てられたものです。
当時は4階建てのレンガ積み(イギリス積み)の部分が20.5mで、その上に3mの水槽部分があり、屋根を含めると30mありました。
大東亜戦争後、当時の東宇治町の給水施設として使用されていましたが、昭和45年に宇治駐屯地に移譲されました。
昭和56年には水槽部分の腐食が進み、危険なために水槽部分を撤去して、平成6年に展望部分を設置して現在の26mの高さの建物になっています。


展望塔の他にも古い建物が多数残っています。
宇治駐屯地の建物は、明治・大正・昭和戦前のものが40%強を占めています。
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関西補給処_宇治駐屯地_歴史 旧軍の☆印をつけた屋根瓦も存在します。この屋根瓦は、戦後GHQ(第二次大戦後、連合軍が日本占領中に設置した総司令部)の接収を免れるため、地中に埋めていた貴重なものです。


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