樹木は語る
 平成24年4月25日、古河駐屯地後援会の内藤事務局長(隊友会古河支部長)に、古河駐屯地の歴史を講話してもらいました。
演題「古河駐屯地の歴史と風格を樹木は語る」

 少々大げさな表題で恐縮ですが、昭和29年、古河駐屯地開設以来、諸先輩・関係者の方々が、時の要請に応じ、営々と築きあげてきた成果・その足跡について、古河駐屯地の歴史を踏まえ、また、駐屯地開設60周年を再来年迎える好機に、駐屯地を見つめる機会を与えてくださいましたこと、改めて駐屯地司令のご高配に感謝し、駐屯地の樹木に代わって、否、老木の1本として話を進めて参ります。
 先程、団高級幕僚から私の略歴等ご紹介をいただきました。改めて申し上げておきたいことは、自衛官退官後、約25年余、あと1カ月半で81才です。本人はそれ程、意識していませんが、言語不明瞭なところがありましたら、また、お聞き苦しいところがありましたら、ご容赦願います。
 さて、私が古河市との関わりをもったのは、実は茨城大学2年生の昭和27年6月、参議院議員選挙の応援遊説隊員の一員として古河市を訪れたのが最初でした。現在の駅西地域あたり、旧4号線沿いで街頭演説をしたことが思い出せます。駅西地域は、当時の古河市の中心街で、落ち着いた静かな街、市制施行されたのが、茨城県内で水戸・日立・土浦の次、4番目に市制が施行されました。社寺仏閣が多く(旧市内に寺が大・小24カ所)、また樹木が多く緑豊かな街、特に「ケヤキ」の大木が印象的でした。県都の水戸市からトラック(選挙用街宣車の定番は貨物トラックの荷台に木造で小屋を設けたもの)で、悪路とはいえ、ウグイス嬢の連呼で、当時は若いからそれ程苦にならず、よくもこんなに遠くまで来たな!! ここも茨城県か!? それでも当時の古河市は落ち着いた都市として癒されたことを覚えています。
 2回目、古河市に来たのは、保安隊幹部候補生後期教育の時でした。
 若干、余談になりますが保安隊に入隊したのは、昭和29年4月8日でした。因みに入隊時の階級は、3等保安士補、略称「サンポ」で、現在の3等陸曹にあたります。三補の給料は、今とは若干給与体系が異なり、日給・月給という形態で、1日150円、4月は30日ですから4500円。入隊1カ月後、2等保安士補に、6月には保安隊から陸上自衛隊に改称されて、階級章も現在の自治体消防団員の階級章から襟章に変わり、3カ月後には1等陸曹に昇任、座金をつけた幹部候補生、希望通り職種も施設科に指定されました。
 茨城大学での専攻は、政治経済、どう考えても施設科職種には馴染まないのですが、単に住み馴れた水戸市に近い勝田駐屯地に勤務できると勝手に決めつけ、施設科職種を希望したのです。結果的には、施設学校の勤務は自衛隊人生を通して教育部で戦術教官2年、研究部運用2課長として、教範「施設科運用」の改訂のため2年、合計4年余でした。
 話を元に戻します。2度目は古河市にある施設補給処で、施設補給関係の教育を受けるため、古河に参りました。
 時期は、昭和30年2月下旬、勝田の施設学校を出発、厳冬と悪路、約5時間トラックに揺られて到着したのが、寒風と猛烈な砂塵が吹き荒れる古河駐屯地、正しくは北古河駐屯地でした。当時支給されていた黄泥色の毛布生地で作られたような分厚い襟の高い外套(現在支給されているのかな、便利で、暖かいものです)で身を包んでいたのですが、日光男体嵐には勝てず、オーバーな表現ではありません。本当に1メートル先も見えない、否、眼をあけてはいられない程。また、駐屯地の営庭はもちろんのこと、近傍の農家や畑も砂塵の供給源でその「すざましさ」に驚かされました。宿舎の窓枠にも砂塵が積もっていたことを思い出します。
 大学生時代に受けた「あの素晴らしい! 潤いのある古河市」の印章とは雲泥の差、部隊勤務地は「どこでもいい、古河駐屯地だけは「ゴメン」」。
 以来、自衛隊人生の中、勤務地古河は「想定外」と決めつけていました。
 古河駐屯地は、開設当初昭和29年頃は、南・北別々の駐屯地が開設され、それぞれ、古河南駐屯地と古河北駐屯地と呼称されていました。南駐屯地には、愛知県豊川市から第1施設大隊が、北駐屯地には、千葉県松戸市から施設補給処が移駐してきたこと、また、昭和36年に南北駐屯地が統合されて、現在の古河駐屯地になりました。当初、南北に区分されて開設された理由については不明ですが、統合された理由は何となく理解できます。まず、駐屯地開設に至る経緯を概略、紹介します。
 太平洋戦争、当時は大東亜戦争といわれていました。戦局が悪化の一途をたどっていた昭和19年5月、勝鹿村上辺見(一部は下辺見を含む。)に、三菱重工業株式会社茨城機器製作所が開設されました。この工場は、主に海軍(旧帝国海軍)の要請によって三菱重工業・川崎機器製作所、通称「川機」と呼ばれ、小型艦艇用高速ディーゼル・エンジンの主産力増強のために、京浜地区以外の候補地の中から昭和18年7月、当時の古河町(旧古河市)に隣接する勝鹿村が進出地に選ばれました。平成の大合併の前の総和町は昭和30年、勝鹿村(現在の駐屯地所在地)・香取村・桜井村・岡郷村の4カ村が合併して誕生した町で、戦後は、保安隊誘致や旧岡郷飛行場跡地等利用の丘里工業団地開設によって、町の財政は豊かになり、東の鹿島・神栖、西の総和といわれる程に、財政豊かになりましたが、当時はこの地域は、茨城西部の「辺境」地区でした。現在の官舎から日赤病院の跡地は、国鉄(今のJR)の宇都宮線の盛土用土取り場で、三菱重工が誘致される前から引き込み線は敷かれていました。古河町を中心に合併し、国家の進める計画的な国土開発に沿い、大工場を誘致して工業都市化を目指そうとする動きがあったと言われていたので、計画は順調に進みました。用地買収決定後、工場の建設は急ピッチで進められ、昭和19年4月には第1期工事がほぼ完成しました。工場の規模は、面積260,229坪、建物9,529坪、機械設備162台と言われていますが、非常に広大な敷地面積を有する大工場であったことは理解できます。(現在の駐屯地の約2倍の面積?)
 第2期工事は、建設資材等の調達が思うようにいかず、また、生産品も戦局の推移に伴い、航空機部品類や一人乗り潜水艇用小型エンジン(特殊潜攻艇・あるいは別称人間魚雷)用へ転換していったと言われています。また、米軍機による本土空襲は日増しに激しくなり、その危険性を回避するために、栃木県真名子村(現在の栃木市真名子)に地下工場を建設して移転することになりましたが、着工前に敗戦となりました。日本有数の軍需企業として、膨張を続けてきた三菱重工業も敗戦により平和産業へ転換、茨城機器でも軍需品から民需品へ、製粉・精米等の各種農機具や、鍋・釜等の生産を手がけていましたが、昭和24年3月、事業所としての「茨機」はやむなく閉鎖することになり、人員整理して横浜造船所の古河工作部として再出発しましたが、これも工場の経営自体は赤字が続き、京浜地区から遠く、資材購入・製品輸送の費用・時間的ロスも大きく、また、戦時下に敵の空襲にも配慮して建設された非効率な工場配置などから、古河工場の将来的な勝算性は乏しいと判断されて、閉鎖の方針が決定されました。
 古河工場の閉鎖が、もちろん従業員のみならず、地域住民に与える影響も大きく、古河市と勝鹿村が共同して工場の存続運動に乗り出し、市議会・村議会における三菱重工業への陳情決議等、また「古河工場存続対策委員会」の結成等、種々存続運動を展開されましたが、結果は実らず、昭和27年3月31日をもって閉鎖され、戦争末期に急造された工場は、約8年半という短い期間で、その役割を終えたことになりました。村の中心部に位置する約26万坪以上の大工場の閉鎖という事態は、勝鹿村にとっては死活問題であり、また、周辺自治体にとっても大きな関心事であったと思います。
 工場閉鎖が決定された直後の昭和26年12月には、今までこの地域医療にも貢献してきた同工場の付属病院を勝鹿村が積極的に払い下げ、これを日本赤十字社に寄付して日本赤十字病院の分院を建設しようとする交渉が始められました。交渉の結果は、期待通り昭和28年11月「猿島赤十字病院」として開院されました。これは工場跡地のごく一部、残る大部分の跡地利用に関心が高まりつつある中、昭和27年1月、警察予備隊の定員増が決定、27年度中に、75,000人から11万人に増員する発表があり、偶然にも古河工場の閉鎖決定の直後に定められたことによって、タイミング良く予備隊の誘致運動が起こることになりました。
 予備隊誘致、古河に予備隊が来る! 昭和28年1月に決定。約13万坪の駐屯地用地の売買契約が成立しました。
 駐屯する部隊は、種々情報が乱れ飛び、期待を含む最もらしい擬情報が流れていましたが、時間の経過とともに「工兵的な部隊と補給処が併設される」という話があり、地域住民の間では、補給処というのは「全国の保安隊に補給する兵器等を生産する工場」と目されたことから、その下請け工場など期待する反応や、駐屯する隊員数が2,000人から3,000人規模になるといわれていたので、古河駅東地区や駐屯地周辺には、これをあてこむ商店や飲食店が次々と建てられたそうです。今でもその名残があります。しかしながら、保安隊の駐屯に対しては、その経済的効果を期待する好意的な反応だけではなかったようですが省略します。
 さて、昭和29年2月20日、移駐が完了しました。南古河駐屯地と北古河駐屯地の2つの駐屯地が同時に発足しました。南・北に区分された理由は定かではないですが、南古河駐屯地には、第1施設大隊が愛知県豊川市から、北古河駐屯地には施設補給敞が千葉県松戸市から移駐し、両駐屯地合わせて総勢1,700人規模であったと聞いています。期待された規模等であったのかは、確認していません。三菱重工業古河工場跡地に発足した保安隊の駐屯地、わずか3カ月足らずで陸上自衛隊に衣替え、昭和36年8月17日、南北古河駐屯地が統合され、現在の古河駐屯地になりました。
 このような経過から、大部分の、あるいは多くの地域住民の方々の駐屯地に対する考え方は、「俺達の駐屯地」と近親感を有しています。
 駐屯地開設以来、植栽された樹木。旧三菱重工が開設される以前の樹木、総てが駐屯地の歴史を静かに見つめている、否見守っていると思います。
 主として植栽された樹木、それぞれ、その目的と効果などについて樹木に代わって紹介したいと思います。
 これは、南・北古河駐屯地の境界に植えられたヒノキです。少なくとも、昭和29年、両駐屯地が開設された当時に植えられたものであろうと思います。写真上に並んだ樹木の左側に深さ1メートル程度の溝が掘られ、それが境界らしいです。
 昭和36年の南北統合まで除草など清掃担当問題で、子供のけんかのようだったと昔を懐かしむように老OBが話してくれました。おそらく、古河駐屯地最初に植栽された樹木で、境界を示す目的で植栽されたものです。
 「刀水」の前の桜、ではありません、反対側のモクセイの木。20本、概ね等間隔に、きれいに植えられています。写真撮影の方向指示が悪く、時期が桜の開花時期であったために、桜並木の方が強調された結果になりました。反省しています。
 この「モクセイ」の木、成人を記念して毎年、駐屯地成人式後、植え続けられた結果20本になったものです。
 植樹され「モクセイ」の脇に「昭和○年成人記念」と墨痕鮮やかに書かれていましたが、古いものから木碑が腐りかけ、また、等間隔に植えられているので、まるで墓標のようと揶揄され、平成10年1月から体育館前に場所を移し、樹種も「モクセイ」から「ハナミズキ」に変更されました。
 他意はないですが、モクセイは中国原産の庭木、ハナミズキは米国産、樹種変更の理由は聞きもらしました。また、モクセイ(キンモクセイ)は、旧総和町の木に指定されていましたが、合併して古河市になったので時代の流れか?! 因みに花はサルビアでした。
 整然と植えられた「カイズカイブキ」
 昭和50年に植えられたもの、51年に陸幕の総合視察受閲のために、整備・植栽されたもので、通称「三澤道路」と呼ばれていました。
 第8代(昭和50年から昭和52年)古河駐屯地司令 三澤彰将補は、小生が陸幕施設課勤務時代に、訓練班長としてご指導いただいた大先輩で、すでに、故人になられましたが、漏れ聞くところによると、当時、福岡県飯塚駐屯地に転勤した部下の方が、課外に、趣味で園芸クラブを作り、樹木の苗木を育てていました。細部は不明ですが、そこから送られてきたものだそうです。
 美観はもちろんのこと、駐屯地柵外の一般道路からの隠蔽にもなり、営庭の芝生化と相まって、砂塵にも極めて効果的であると思います。先輩達の努力に改めて敬意と感謝を捧げたいと思います。
 丸坊主になった銀杏(イチョウ)の木、そろそろ新芽が出てくるでしょう。発育が良いもので、1号営庭の南及び東側を飾るものですが入手先は不明です。
 昭和53年3月、施設補給処保管部長として着任した時期は新緑で、素晴らしい景観を醸し出していました。  
樹高は約3メートルぐらい、秋の紅葉時期を楽しみに待っていましたが、夏の終わり頃、見慣れぬクレーン車のようなトラックと部外者の作業員が、枝葉ごと採っていました。詳細は不明でしたが、後日駐屯地関係者に尋ねたところによると「血圧を下げる薬」の原料としてドイツに輸出されるとのことでした。変な意味で、変なところに貢献しているな! 複雑な気持ちで、整然と植えられた銀杏の木に、妙な敬意を払っています。
 丸く刈り込まれた「ツツジ」、「サツキ」ではありません。ここに鎮座する控えめな記念碑、昭和53年3月頃の建立です。
 昭和52年頃から54年にかけて、自己啓発が推奨されました、否、むしろ、強制的といった方が適言かもしれません。
 人、それぞれに「潜在能力」がある。すなわちポテンシャルを有します。それに、一層磨きをかけて、任務遂行に活かそうという考え方でした。
 毎週、金曜日の午後、ホークリフトの操縦や書道等趣味の範囲にまでと広く、自発的に勉強したり、させられましたが論評は控えたいと思います。
 当時、古河駐屯地の主力部隊は、施設補給処で、制服隊員と事務官・技官等との比率は、概ね同数でした。部や課によっては私服の方が多いので「自己啓発」という形で「やる気を喚起」する手段としては適切だったのかもしれません。
 愛称をもって「ポテンシャル博士」と陰口をたたく人もありましたが、工学博士の称号を有する陸将補、素晴らしい指導者だったことは言うまでもありません。話を戻します。それから何年か過ぎました。丁度、作業服の階級章の星などが、白から黒に変わった時期に「駐屯地内や演習場内に記念碑等を建てるべからず、現存するものは撤去せよ」との陸幕から厳しい「お達し」がありました。
 悲嘆する人もありましたが撤去することになり、災害派遣等の記念碑は総て姿を消しました。しかしながら時を経て、近年、撤去したはずの記念碑が、何食わぬ顔で静かに鎮座している様は、驚きです。恐る恐る、控えめに顔を出して来た碑を守ってきたのは、覆い被せた盛土ばかりではなく、小さな盛土と「ツツジ」、それを覆う樹木だろうと思います。撤去せずに土を覆い被せた人の知恵、すごい!ただし、自己啓発の趣旨と建立の意義が忘れられたとしたら、ナンセンスですが。
 駐屯地開設50周年記念樹として、古河駐屯地後援会から寄贈された「桜」、駐屯地厚生センター前の広場に植えさせていただきました。永く隊員の皆様に愛される樹木になるよう期待し祈念しています。
 申し遅れましたが、駐屯地後援会、駐屯地の諸行事等、種々な場面に顔を出させてもらっている民間団体です。また、あくまでも古河駐屯地を後援するため、平成7年に組織したもので、今まで各駐屯地に勤務した経験から、必要不可欠なものとして、市民が積極的に駐屯地を支援する組織がないことでした。自慢できるのは全国でも珍しい団体、他の駐屯地にはない組織として、駐屯地の歴史に常に花を添えて参りたいと思っています。
 しだれ桜、昭和41年、駐屯地ラグビー場竣工記念として、ラグビー場と隣接する車両登坂試験所周辺に植えられていたものです。
 正確には名称は忘れましたが、全国駐屯地対抗ラグビー大会が毎年開かれ、古河駐屯地は、常に上位を占めていました。
 しだれ桜の提供者は不明です。比較的活着率が高かったのですが、高射中隊の移駐によって分散移植され、桜並木とまでは言えない存在になっています。
 昭和53年、ケヤキの苗木280本、航空自衛隊百里基地から贈られてきたものです。
 寄贈理由は定かではないのですが、古河地方は、昔からケヤキの生育に適しています。いずれ間伐を検討する時期が来るだろうと思いますが「樹木の特性を踏まえ、植栽等考えてもらいたい」とケヤキから悲鳴が聞こえてくるような気がします。
 昭和40年、古河駐屯地協力会が寄贈した300本の梅の木の一部です。
 隊員の食用に寄贈してくれた訳ではありませんが、当時、気骨ある大野さんという栄養士さんの指導で「梅干し」を作り、隊員食堂で活用したという話を聞きました。ただし、長続きはしなかったと言うことです。 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」といわれています。駐屯地の美観、特に、古河地方でこれだけの梅林は珍しいです。寄贈してくれた古河駐屯地協力会、当時の構成市町村は20、平成の大合併で数は少なくなりましたが、駐屯地に寄贈した「思い」は変わらないと思います。素晴らしい「観梅」を期待しているはずです。
 駐屯地西側にある池「三菱重工、川崎機器」が戦時中、小型エンジンのテスト用として使っていたと言われています。
 その昔、この辺に「六軒下」と呼ばれていた小さな集落があったそうですが、工場の設置や向堀川の改修等で池の形も若干変わったようです。
 さて、この池、水量や深さに興味を示す人が多いのも事実です。昭和54年6月頃でしたか、1号隊舎の通路に、当時は赤電話器が置かれていましたが、何者かに盗まれました。警務隊は、電話器の中の小銭を取って本体をどこかに捨てたと推定し、この池の中ではないかと決めつけ、早速、補給処に整備で入処している消防ポンプ車数台をもって、長時間排水しましたが、1日や2日では排水できず、わき水が多く池の底を見ることも困難で、赤電話器も発見できず、捨ててはならないもの、噛みつき亀や、タイヤ・自転車等が、たくさん発見されました。後日、赤電話器は、隊舎の中で発見されたことを申し添えておきます。一方、人間魚雷になって敵艦に体当たり、国のために若い命を捧げた人々、その推進役としてのエンジンをテストした池、願わくば永遠に、きれいな水をたたえてもらいたいと思います。また、時代とはいえ、強制的に立ち退きされた六軒下の農家の皆様に幸あれと思っています。
 シュロの木の仮植です。今まで説明してきた樹木は全部、駐屯地が開設されてから植えられたものです。また、ほとんど部外者や協力者等から無償で提供されたものといっても過言ではありません。また、提供してくださった方にも、自衛隊古河駐屯地に対する「思い」があるはずです。
 この「シュロ」の木は、市内東牛谷の農家から提供を受けたもので、自宅前の公道が拡幅されるため、樹木の特徴を活かすために、広い庭のある場所に提供したいと考え、私が総和町議時代に後援いただいた方からの提供で、とりあえず仮植されているものです。
 このシバザクラ「駐屯地正門、あるいは外柵沿いに植えたい」と、当時の駐屯地司令からの要望で提供者を捜した結果、西牛谷の農家の方から快く提供してもらったものです。
 ピンクの花がきれいですね!
 駐屯地消防班は、以前は1号館と2号館の間にありましたが、現在は、ご承知の通り警衛所に連接して設置されています。
 ご存じの通り、災害派遣出動の要請は県知事から、要請がなくとも出動できるのが、駐屯地の近傍火災です。
 旧総和町には、以前常設消防がなく、現在でも常設消防の分所は中心部から離れています。消防団の対応にも時間を要するので、駐屯地消防班の迅速な対処には、当時の町当局はもちろんのこと、周辺住民、特に行政区長などから感謝され、また「たより」にされていました。
 加えて、当時の消防班長殿は、常に火災警報等を積極的に傍受して出動し、自治体の消防車よりも速く現場に到着した自慢話が講じて、近傍火災の出動範囲が拡大し、駐屯地司令からの厳しい指導もありましたが、町当局からは感謝状をいただく等、駐屯地消防班の地位と役割、今後も難しい対応が求められています。
 常在戦場、日常のご苦労に感謝して、駐屯地警衛所と消防班に、古河駐屯地後援会から「標札」を提供させてもらいました。ご苦労様です。
 駐屯地の歴史、開設後の経過を踏まえて、因縁めいたことがあります。老婆心ながら、聞き流してもらえれば幸甚です。
 JR古河駅から駐屯地西側、旧日赤跡地と自衛隊官舎間に鉄道の引込線が、昭和49年まで存在しました。
 旧国鉄が、利根川に架かる鉄橋を洪水から守るためにかさ上げしました。その盛土用材の土取り場が鹿養台、旧日赤跡地を含む駐屯地の西側一帯だったそうです。
 土砂運搬用を経て、三菱重工業・川崎機器製作所から京浜地区まで製品輸送に使われ、昭和30年施設補給処が再利用、49年に撤去されたものです。それ以降、旧総和町大堤の子供たちの通学路として、また、宅地開発等に伴い整備されてきましたが、接点開発(旧古河市と総和町)事業として、土地区画整理事業区域内にあり、大幅に拡幅整備されつつあります。また、国道125号線が駐屯地及び向堀側沿いに埼玉県栗橋まで建設計画されています。
 これら道路網の再編にあたって、引込線跡地及び駐屯地西側外柵沿いが、また、旧日赤跡地の利用方法(古河市の計画で検討中)によって、種々な問題が惹起する可能性があります。
 ナイキ・アジャクス搬送等鉄道引込線には因縁深いものがあることを忘れてはなりません。
 また、周辺道路の拡幅整備、特に、駐屯地東側の道路については、少なくとも歩道がなく、旧日赤跡地の利用及び交通上の危険性を考慮すれば、問題点として大きくクローズ・アップされます。詳細は省略しますが、今後とも関係機関等との連携を密にして対応することに期待します。
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