高田駐屯地列伝(旧第13師団〜陸上自衛隊)

 旧第13師団の設置は軍の誘致を要望してきた高田町(当時)新発田、長野、松本と競り勝った結果、明治41年11月将兵3,600名が高田へ入城したものである。以来高田は軍都として賑わった。
 当時は、高田城址の本丸跡師に団司令部、歩兵第26旅団司令部、高田聯隊区司令部が、東西には兵器支廠、騎兵第17聯隊、弾薬庫、南側には野砲兵第19聯隊(現高田駐屯地)、歩兵第58聯隊、輜重兵第13大隊、衛戍病院が配置された。その後は軍縮により大正14年に第13師団は廃止され第26旅団のみとなってしまう。終戦時には航空通信隊が駐在し、終戦後は連合軍や国鉄の教習所として使用された。

旧第13師団入城
辛亥革命100周年 蒋介石
警察予備隊〜陸上保安隊〜陸上自衛隊

 昭和25年朝鮮戦争が勃発するとGHQは国内の治安維持のため警察予備隊の創設を示唆した。このため高田氏は警察予備隊の誘致に乗り出し当年10月に予備隊の高田駐在が決定した。朝鮮戦争勃発から僅か4ヶ月後のことであった。翌26年には日米安全保障の締結にともない米軍の駐留とともに警察予備隊を陸上保安隊へと改称し29年には隊の名称は更に陸上自衛隊へと改称された。29年当時の高田駐屯地の隊員は1,700名を数えた。

駐屯地、第5施設群の沿革
明治41年11月 第13師団の一陣が高田へ入城、野砲第19連隊が現高田駐屯地へ駐屯
明治43年11月
 師団長官舎落成
明治43年12月 「蒋介石」野砲第19連隊へ軍事留学
明治44年 1月 オーストリアのレルヒ少佐が歩兵第58連隊にスキー指導(日本スキー発祥)
大正 2年 4月 第13師団満州駐剳(守備任務)
大正 4年 5月 満州から帰還
大正 9年 1月 戦時編成出動(シベリア出兵)
大正10年 4月 シベリアより帰還
大正12年 9月 関東大震災(帝都警備)第13師団2600名上京
大正14年 5月 第13師団廃止(宇垣軍縮)師団司令部跡に仙台より第15旅団司令部
            野砲第19連隊跡に仙台より山砲1連隊が独立山砲1連隊に改編され移駐
昭和12年     第13師団は復活し支那事変に参加し徐州会戦等中国戦線で戦闘
昭和19年     インパール作戦でコヒマで戦闘
昭和20年     終戦
昭和25年11月  山形県神町より警察予備隊第4連隊の先発隊高田に到

 蒋介石は1907年に軍事留学のため訪日し、士官学生11期生として振武台(当時は市ヶ谷)で学んだ後1910年、高田駐在の第13師団野砲兵第19聯隊に40名(16名説もあり。)とともに入隊した。
 高田での生活は介石に強い印象を与え、後々までその体験を語っている。5時前に起床し冷水で顔を洗い馬を擦る仕事を通じて「苦を転じて楽となし、艱難を恐れない精神を身につけたが、これらの経験は人生で学んだ最大の学業であった。」と回想している。また、いかなる階層の子弟も平等の扱いを受ける日本軍の教育に感嘆した。
 1911年、辛亥革命が勃発すると母国が革命の時に勉学するにあらずと当時の長岡師団長に直談判し、水盃を交わし高田を後にした。しかし、その扱いは脱走兵というものであった。その後、中国の要人となり訪日した折り、当時の師団長長岡外史を訪ねた際、折り目正しい立ち振る舞いに長岡外史は「君は変わらないね」との問いかけに「不負師教(師の教えには背きません。)」と揮毫し当時の教えがあるから現在の私が有りますとの思いを伝えた。(郷土記念館のページに写真があります。
 1945年8月15日、終戦を迎えた中国では蒋介石がラジオを通じ人民に対し、日本軍閥は敵であるが日本人民は敵に有らず、日本人の帰国と復興に配慮せよと述べるとともに8年間にわたる日本との戦いに幕を下ろした。

駐屯地、第5施設群の沿革