筥崎宮と千利休

 今回は、筥崎宮の最終回として、茶人として有名な千利休と筥崎宮との関係について雑談をしましょう。
 千利休(大永2年(1522年) - 天正19(1591)年2月28日) は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人で、侘び茶(草庵の茶)の完成者と言われ茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられる人物である。
 千利休を語るには、やはり豊臣秀吉との関係抜きには語れない。 筥崎宮との関係においてもやはり豊臣秀吉と共に登場する。  織田信長の死後、全国の平定を目指した豊臣秀吉は、天正15年(1587年)当時の九州の実力者島津義久討伐のため九州に入り、これを達成して後、筥崎宮に20日ほど宿陣し、この間に同行の千利休らとたびたび茶会を催したとされている。
 その跡形を残すものが筥崎宮のそばにある恵光院内の燈籠(とうろう)堂と九州大学医学部構内の利休釜かけ松の碑である。
 博多の豪商神屋宗湛の日記によると、燈籠堂で茶会が開かれ、青松葉の壁に苫葺き屋根の二畳半ほどの茶室で利休自らがお手前したことや箱崎松原のえびす堂の傍らの松に雲龍の小釜をつるし、松葉をかき集めて湯を沸かしたことが記されているそうだ。ちなみにこの燈籠堂は当時筥崎宮内にあったが、明治政府により出された神仏分離令で今の場所に移されたそうである。  このように秀吉と共に宿陣した千利休は、筥崎宮に灯篭を寄進していて、今でも境内にあり国の重要文化財に指定されている。
 この灯籠の火袋底裏刻銘の終末に「観応元年庚寅六月弐八日、勧進尼了法」「大工井長」とあり、観応元年(1350年)が作成年と伝えられているそうである。
 2005年(平成17年)3月20日福岡県北西沖の玄界灘で発生した最大震度6弱の福岡県西方沖地震地震の際、この灯籠が倒れ、火袋底裏刻銘を再確認したところ事実に間違いのないことが確認されたそうである。



 ところで茶会が開かれ灯籠が寄進されたのは1587年で、通常であれば寄進のために灯籠を制作しそこに自らの名前と年号等を刻むのが一般的であるが、この灯籠にはその種のものはない。237年も前の骨董品を何故利休は寄進したのであろうか。
 わび茶(わびちゃ、侘茶、侘び茶)の完成者と言われる利休の目指した茶の湯は、書院における豪華な茶の湯に対し、四畳半以下の茶室(草庵)を用いた簡素な茶の湯であり、何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すという茶の湯であるといわれている。
 各種資料によれば千利休の目指した茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいわれる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としていると言われる。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点が重要である。利休の目指した侘び茶の精神からは、露地(露地(ろじ)とは茶庭ともいい、茶室に付随する庭園の通称である。)には樹木等は里にある木も植えず人工を避け、飛石と手水鉢で庭の骨組みをつくり、できるだけ自然に山の趣を出すようにし、後には石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになるほか庭に使われる手水鉢や灯籠は、新しくつくるよりは既存のものが好まれ、また廃絶や改修で不要となる橋脚や墓石などが茶人に見立てられ、庭の重要な景色として導入されるようになっていく。

 「侘び」とは古いものの内側からにじみ出てくるような、外装などに関係しない美しさのことだといわれ、古びた様子に美を見出す態度であるため、骨董趣味と関連が深いともいわれている。
 このように千利休の目指した侘び茶の精神からすれば、新品の灯籠などというものの寄進はあり得ないのであろう。夜の茶会が行われたという記録はないが、ひょっとすると恵光院内の燈籠堂で行った夜の茶会に使用した灯籠だったのではないだろうか。
 確認したわけではないのでいい加減なことは言えないが、利休がもしこの様な灯籠を他にも寄進しているとすればやはり同様な古びた中にも美を感じさせるような灯籠が寄進されているのではと勝手に想像するが、他の事例をご存じの方がいれば是非教えて頂きたいものである。
 さて、千利休が箱崎浜・千代松原で茶会を開いた際、松の枝に鎖をかけて、雲竜の絵柄の小釜をつるして白砂の上の松葉をかきあつめて湯を沸かし茶を点てたという「利休釜掛けの松」であるが小釜をつるした松は「利休松」として伝えられ、現在は九州大学馬出キャンパス内医学部基礎研究棟前に跡地が「釜掛けの松」として顕彰されている。
 いかにも利休らしい人工物を廃した自然の中での茶の湯である。九大馬出キャンパスの「利休松」を見てきた。425年の樹齢を刻んだと思われる松は見あたらなかったが、当時の千代松原の白砂の海岸で海を眺めながら松葉で沸かしたお湯で点てた茶の味はどんな味だったのか、そして箱崎浜・千代松原から眺める博多の海は利休の目にどのような景色として映ったのであろうか。
 この筥崎宮での茶会から4年後、天正19年(1591)2月28日に秀吉の命により千家流茶道の開祖とされる千利休は、切腹することになる。切腹に至る理由には諸説有り定かではないが、黄金の茶室に代表される絢爛豪華な茶の湯を好んだ秀吉と、無駄を廃し古いものの内側から滲み出てくるような質素でそれでいて凛として質の高さを主張する侘びの趣を大事にした利休の目指す侘び茶との間には、その精神性において越えられない深い溝が最後まで横たわっていたのではないだろうか。後の世の日本建築や生活様式にまで影響を与えたと言われる茶の湯の精神、それを体現しているかのように立つこの重要文化財の灯籠が千利休の立ち姿のように思えてならないのだが、読者諸兄はいかがであろうか。
 茶聖千利休に安らかな眠りを。