基地の沿革

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基地の沿革

昭和15年 陸軍燃料廠として開設

 昭和15年5月下旬、国産プラント建設のため、明石正水少佐以下15名の技術将校が府中に移駐したのが「陸軍燃料廠」の本格的出発の第一歩でした。
 同年7月31日には、正式に発足、昭和16年4月1日、長谷川基少将以下の本部機構が府中に進出し、陣容も画期的に充実しました。
 昭和16年12月8日、石油の全面的禁輸等を動機に開戦となり、緒戦当初南方油田地帯の確保とともに原油還送も激減しました。
 昭和19年3月1日、燃料行政の重要性に鑑み「陸軍燃料本部」に改編されました。終戦までの5年間、航空燃料、潤滑油の供給確保を図りましたが、技術開発の出発が遅れたこともあってその一部を果たしたのみでした。
しかし、官民あげての技術開発は、戦後のわが国の重化学工業の発展に大きく貢献しました。


昭和20年 終戦後米軍管理

 昭和20年9月に米軍が進駐し、以後昭和32年8月までの12年間にわたり米軍府中基地としての時代が続きました。


昭和32年 空自一部使用開始(開庁)

 昭和32年8月1日に航空集団司令部及び航空保安管制気象群本部が米軍府中基地の一隅に隊員約70名で編成され、航空自衛隊府中基地が併設されました。

翌年の昭和33年8月、航空集団司令部が航空総隊司令部に改編、府中基地隊が新編され、昭和36年7月航空保安管制気象団編成、航空保安管制気象群本部を廃止し、航空管制気象団司令部を編成。昭和42年10月府中基地隊が防空指揮群に改編されました。


昭和50年 米空軍府中基地全面返還

 昭和50年6月、米軍が横田へ移転、約18年間の基地共同使用に終止符が打たれました。その間、昭和44年7月調査隊本部府中派遣班が、また、昭和50年7月には、調達実施本部府中調達管理事務所が開設しました。


昭和58年 米空軍府中基地跡地3分割

昭和57年12月16日に約56万平方メートルの米空軍府中基地を3分割で利用することが大蔵省地方審議会で決定され、現在の敷地となりました。