公の場での最初の演奏は、昭和32年8月5日、整備学校長の着任式であり、12名の隊員が栄誉礼等の演奏を行った。昭和32年9月、浜松基地隊が基地業務群に改編され、音楽隊も同群に編成された広報班に置かれ、隊員は基地業務群に臨時勤務することになった。この頃から、小規模ながら、栄誉礼演奏及び部外広報演奏活動をするようになった。
「音楽要員の定員増加に関する通達」(空幕防第270号 昭和32年12月16日)により、音楽隊の所属及び定員が示され、要員は逐次基地業務部所属の発令がなされた。これに基づき昭和33年1月8日に音楽隊が仮編成され、3月12日には空幕屋上で仮編成披露の演奏を行った。また、3月20日には、奈良あやめケ池遊園地で開催された「平和のための防衛博覧会」において陸海空音楽隊の初の合同演奏会が実現し、部外に対して演奏デビューした。その時の参加人員は17名と陸上自衛隊中央音楽隊からの支援人員10名の計27名であった。
昭和33年6月4日、音楽隊は、技術研究本部第3研究所の開所式典に演奏参加し、式典参加者の理解ある奔走により立川分屯基地への移駐が具体化した。7月25日、隊員18名は第1補給処(立川)所属を命ぜられ立川基地に移動、広報班付(音楽要員)となった。
演奏回数も徐々に増え、昭和32年度に49回だった演奏回数が翌33年度には168回を数えた。昭和33年4月3日の第3操縦学校分校(美保基地)開校式典並びに美保地区演奏では、移動に初めて航空機(C-46)を使った。4月5日には初の九州地区演奏(築城、新田原基地)を行った。10月31日には、自衛隊記念日前夜祭において、東京都内の日比谷公会堂で初の広報演奏を行った。昭和34年4月10日には皇太子ご成婚記念祝賀行事に参加し、東京青山で演奏活動を行った。
これらの経緯を経て、臨時航空音楽隊が編成されたのは昭和34年10月23日のことで、隊員は、幹部×3、空曹×28、空士×14の計45名であった。それから1年半後の昭和36年2月1日、臨時が取れて正規の航空音楽隊になった。長官直轄部隊となり、45名の定員であった。この間演奏回数は、昭和34年度が152回、35年度は208回と増加し北海道地区サイト及び周辺地区の巡回演奏(34.8.10〜23)や米第5空軍軍楽隊との初共演(34.10.1)、自衛隊観閲式(10周年記念)に初参加(35.11.1)、天皇誕生日祝賀日米合同演奏会(35.4.29)等と活動の幅が広がっていった。 <その2へ続く>
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